連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第5回 Google ストリートビュー / GSV雑感 文:倉石信乃

「写真±(プラスマイナス)」概要/目次

第5回 Google ストリートビュー
GSV雑感 文:倉石信乃
ストリートビュー、「風景の死滅」 文:清水穣

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 あらかじめ起動したグーグル・アース(GE)からグーグル・ストリート・ビュー(GSV)へ転じる時の動き、まず視点が上空にありその高みから滑らかに降下して着地する一連の映像に、擬似的ではあれ軍事演習的な感興を覚えることができる。またグーグルの検索ボックスに地名や住所を入力しグーグル・マップ(GM)をブラウズしてからGSVへ移行する一連の展開、つまり文字から地図へ、さらに映像への転換には、たび重なる切断と接続がもたらす眩暈がある。GSVを仲立ちにする視覚的な快は、複数の次元をまたぎ行き来することによって生じるといえるかもしれない。文字と地図と映像の間を行きつ戻りつして、最終的には現実の風景に対峙すること、それはまさに軍事的な視線に固有の感覚の発露ではないか。GSVを可能にしているテクノロジーと、我々の身体とが同期することが快なのではない。そうしたテクノロジーに引き摺られながらなされる「同期のマゾヒズム」が快というべきで、その限りにおいてGSVはマシニズムに美を見出す、モダニズムの伝統を継承するミディアムであり画像だ。
 
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 GSVでは、一つの地点から前後左右に置かれた矢印をクリックして、ずっと歩行というか走行しつづけることができる。どこまでも進んでいけるようにみえるが、この擬似的な散歩やジョギングに難があるとすれば、立ち止まることはできても、たいてい道の中央にしかいることができないことだ。横に歩くことや、道の「奥」に踏み込むのは苦手のようである。道を曲がるのもあまり得意ではなく、現実に歩くような訳にはいかない。家並み、ファサードの群れを散漫に見ていたいときには、立ち止まらなければならない。道の真ん中を行くのだから、移動時には左右の家の連なりなどは明確に見えていない。かくしてGSVの移動では、いつしか歩くか走るかすること自体が自己目的化していることになる。だからあらぬところでデッドエンドに突き当たるか、その前に移動に飽きてしまう。GSVでは、倦怠と幻滅も多くもたらされる。このことは不自由さと関係があり、テクノロジーがもたらすものだ。その倦怠と幻滅という経験ゆえにすでに写真的である。GSVは写真史の正統的な嫡子である。
 
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 GSVはもはや十分すぎるほどに日常化し、ありふれてはいても役に立つ視覚経験をもたらしている。見知らぬ現地を訪れる用事がある際に、予習するにはとても便利なツールだ。代わりに復習にはあまり馴染まないかもしれない。また、現地で現在進行形で目的地を探す時などに、GMほど依存的に使われることはないだろう。予習用のミディアムとしてのGSVは、不動産情報を精査する場合にその威力を発揮する。引っ越しを考えて家探しをする場合に物件を調べていく時などに、相場よりも安く表示されていると気づくことがある。これは、と思えばいずれ当の場所まで実際に出向かなくてならないのだが、その前にできることはかなりある。物件の住所をグーグルの検索ボックスに入れて、まずGMを眺めてから必要に応じてGSVへ移行することから始めよう。なるほど川沿いなのか、崖下なんだな、墓地、産廃施設、調整池の近くか、送電線や鉄塔の真下ではないか、なんとなく活気がない界隈だ、などとつぶさに物件のある付近の環境を理解できる。GMだけでなく電子データ化されたハザードマップなどを併用しつつ、自室に居ながらにして、不動産物件の賃料や価額の意味するところをかなり正確に判断しうる。ただしGSVはその補助的な手段として有益なのだが、つねに予習的、保険的な情報を獲得することに眼目がある。保守的なミディアムとしてのGSV。

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