平凡な写真の力 — ゼーバルトの写真引用 文:満留伸一郎

 写真はよそよそしい (*1) 。記録と割り切った記念写真の類いならそう気にもならないが、これはと思って撮ったものでも、たいていの場合失望が待っている。そこには、見ていたものとは似ても似つかない、いや似ているどころかたしかにきわめて正確なのだが、なぜか一向に感情移入できない事物が厳然と存在するばかりで、わたしと写真とのあいだには断絶が横たわり、取りつく島もない。そもそも写真とは事実を淡々と提示するものであり、すべからく失望させるものなのかもしれない。そのような写真は、「あー、これこれ」という同語反復的確認作業 (*2) を経てさっさと仕舞い込まれる。今なら、コンマ数秒眺めたあと、指のひと振りで画面から追い出されてしまう。

 ではそんな写真をなぜ破棄してしまわないのかというと、時間に期待しているからだ。20年後か30年後、その写真はなつかしさを掻き立ててくれるはずだ。ところが写真とは極端なもので、予想よりはるかに痛切な感情をときに惹き起こす。同じ光景や対象がそこにあり、「ただそれだけ」なのはかつてと何も変わらないのに、こんどは激しく感情を揺さぶられる。しかも見た目は相変わらず「ただそれだけ」の画像と、受けた衝撃とのあまりのへだたりを、どうしても言葉で架橋できない。せいぜいうめきともつかぬ嘆声をもらすくらいのものだ。ここにもうひとつ別の断絶がある。

 これは、鑑賞者と写真のあいだに私的な関係がある場合の話だ。もうひとつ、時間に頼らず写真のよそよそしさを抑制し、写真と鑑賞者との断絶を埋める方法がある。何かを表そうという表現性の付与、写真の記号化、コード化であり、広い意味での芸術的意図を込めること、ようするに「よい写真」を作ることだ。

 かつて、多大な時間と労力を費やして一枚の写真を慎重に製作していた頃は、時間の助けなど借りなくても、写真はよそよそしくなかったのだろうか。いや、当時から写真は激しい拒絶反応を惹き起こしたという。19世紀半ばのダゲレオタイプこそ写真の真の黄金期だ、というのはやはり時を経た後世の見方なのだろう。いずれにしろ、その後勃興したピクトリアリズムは、ただ写真の芸術化というだけでなく、まずそんな写真のよそよそしさを馴致する試みであった。その後1920年代に即物的な写真が回帰したことは、写真のよそよそしい精確さに人びとが慣れたというのもあるだろうが、物語性や不鮮明表現といった分かりやすい手段よりはるかに微妙繊細な、芸術化の手法を写真家たちが獲得したことによるだろう。

 そしてその間にも、いったいどれだけあるのか想像を絶する平凡な写真が、アマチュアによって撮影され続けて今に至っている。ところで、写真をその場でチェックできてしまうデジタル写真は、撮りたいと思った光景が目の前にあるだけ、かつてよりも大きな失望を与えそうなものだが、近年のデジタル技術は、誰でもそれらしい雰囲気に満ちた写真を撮ることを可能にし、いわば平凡な写真を撮ることを難しくしている。その特性に習熟したアマチュアは、もはやプロ同様、結果を見越してシャッターボタンを押し、あるいは画面をタッチする。ということはつまり現実を写真のように、と言っても事実ありのままにという意味ではなく、記号化された形で眺めている。

 平凡で失望を惹き起こす写真こそ写真本来の姿なのだと、今こそ強調すべきなのかもしれない。見る者と写真との間の感情交流の断絶。ドラマティックだと思った私の日常がじつに無味乾燥であることを知らされて醒めること。写真とは美化するものではなく異化するものなのだ。ただし、平凡な写真が有するこのような異化効果(よそよそしさ)は、注視を誘う性質のものではなく、通常のいわゆる異化とは異なる。本来異化とは、自動化し意識的に観察されなくなった現実のなかに異和を投入することで、「それがそこにある」ということをあらためて意識させることだ。一方平凡な写真のなかでは、あらゆるものがフラットにただ存在する。その死んだような無味乾燥さは、極端に言うとむしろ目をそらしたくなるものだ。この場合異化されているのは、画面内の一部ではなく、その写真そのものだと言ってもよいだろう。いや異化されるのは現実の方かもしれない。

 異化が効力を発揮して注視を誘うのは、写真のよそよそしさを隠蔽する美化(芸術化、記号化、コード化)「にもかかわらず」、異化が一部残留している場合だ。表現物、芸術作品である「にもかかわらず」それは写真なのだ。写真の本質は異化であること、つまり写真の本質はささいなディテールにあることをよく分かっていて、そのディテールが息づく余地を残しておくのがよい写真家ではないか。

 平凡な写真、そして広義の芸術写真(表現写真とでも呼ぼうか。それは、異化が存在しない完全にコード化された写真と、異化が残留する写真に分けられる)。さらにその先に、可能性としての真におそるべき写真がある。時間の助けも私的関わりもなしに、注視するよう強く働きかける、しかも平凡な写真 (*3) 。表現性の欠如(ただただ事実を提示するだけ)にもかかわらず、見続けずにはいられない写真。それは偶然の奇跡によってしか生まれ得ないのだろうか。

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