フラットネスをかき混ぜる🌪(1)二次元平面でも三次元空間でもないフラットネス🚥 文:水野勝仁

連載一覧
(2)二次元平面と三次元空間とが現象として立ち上がらないパターンを示す「写真」🌫
(3)次元が膨張収縮する現象的フラットネスをつくるAR体験📖🔁📱

すべてそれらのフラットネスのために

目の前の空間を見て、そこに手を伸ばしても、空間のなかにあるモノに触れることはできない。そこで、目の前の空間にスマートフォンをかざして、カメラアプリを起動する。そうすると、スマートフォンのディスプレイに目の前の空間とそこにあるモノが表示される。ディスプレイに表示されたモノに触れてみる。指がディスプレイのガラスに当たるとともに、触ろうとしていたモノのイメージに触れる。モノが存在する三次元空間そのものが、ディスプレイという二次元平面へと変換された結果、指はモノとその周囲の空間との区別がなくなったのっぺりとしたイメージに触れている。

スマートフォンのカメラアプリを起動したときのディスプレイに限らず、写真は三次元空間を正確に二次元平面へと投影して、定着させていくものである。このことは今では当たり前の変換になりすぎて、誰も驚きはしない。しかし、三次元空間が二次元平面に変換されるとき、三次元空間がもつ奥行きの情報は失われていて、さらに、二次元平面に変換されたモノとその周囲の空間を見る者は、そののっぺりとしたイメージから否応なく三次元空間を復元するようになっている、ということは驚くべきことではないだろうか。

Photoshopで加工した痕跡を大胆に残す作品を制作するルーカス・ブレイロックは、写真について以下のように書いている。

写真は、すべてそれらのフラットネスのために、純粋に混成の空間を示唆する:それは二次元と三次元、表面平面とそのなかの空間、それだけでなく、抑制、魔術、死、歴史、目撃とほんのいくつかあげてみただけだが、多くのメタファーとなっている。(*1)

ブレイロックは印画紙にプリントされた写真であれ、ディスプレイに表示された画像であれ、それらがすべて二次元平面でイメージを提示し、そのイメージから三次元空間が立ち上がるという写真の前提を端的に指摘している。しかし、私は二次元平面でもなく三次元空間でもない「フラットネス(=平坦さ)」という言葉に奇妙な感じを持ち、この言葉を用いた「すべてそれらのフラットネスのために〔for all their flatness〕」という一句に惹かれている。写真というものが提示される紙やディスプレイといった二次元平面、そして、写真が見る者の意識に否応なく立ち上げる三次元空間、このいずれもが含まれる写真のフラットネスとは何なのだろうか。そして、私はPhotoshopを自在に扱うブレイロックの作品のようなコンピュータと強く結びついた現在の写真を見ると、「二次元と三次元、表面平面とそのなかの空間」からはみ出していくような奇妙な感じを覚える。この次元を跨ぐような奇妙な感覚は、今のところ私が感じているものでしかない。しかし、この感覚を頼りに写真のフラットネスを考えていきたい。なぜなら、その先に、写真をめぐるあたらしい言説があると思っているからである。

ブレイロックの作品の分析は次回に行うとして、今回はその準備として写真を表示するディスプレイの基本単位であるピクセルと色情報からコンピュータと結びついた写真のフラットネスを考えるなかで、連載における私の基本的スタンスを示していきたい。


ピクセルには幾何学が関係していない

ルーカスフィルムのコンピュータ部門やピクサーを共同設立したコンピュータ科学者、アルヴィ・レイ・スミスはピクサーのアニメーションとデジタル写真を比較して次のように指摘している。

ピクサーのコンピュータ・アニメーションは、幾何学が基盤となっている。 セットとキャラクターとは幾何学的要素で定義され、時間とともに連続的に移動すると想定されている。 しかし、デジタル写真を考察してみると、そこには幾何学は関係していない 。「現実世界」は直線グリッド上のセンサーの配列でサンプリングされている。(*2) 


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