見出し画像

僕はファッションデザイナー 2020年

#僕はファッションデザイナー

2018年から毎年年末に書いている「僕はファッションデザイナー」
年が経つごとに変わる社会状況や自分の仕事について振り返りながら考えています。

バックナンバー 2018年

2019年

2020年
[ 心臓 ]


「foufouさんがやっている"新しい"販売の方法が〜」「お客さんとの"新しい"コミュニケーションの仕方が〜」「コウサカさんが自然体でいられるのはこれまでにない〜」などとひたすら言われ続けた2020年だった。

自分たちが当たり前のようにやっていることが誰かの琴線に触れることがより多かった気がする。

これはいいことでもあるけれど、いつまでもここに浸かっていてはいけないなとも思う。

僕が新しいことをやっているかといえば答えはNOで、むしろ先祖返りのように「服屋がやるべきことを愚直にやっている」だけだ。

それが新しく映ってしまうならば、アパレル業界は本当に大切にしなければいけない色んなことを見落としているのかもしれない。

あえて振り返る必要もないが今年はコロナパンデミックによって世界の常識が変わり、もう以前のような世界には戻らないんだということが決定した1年だった。

とはいえ僕のいるアパレル業界が「コロナ前は素晴らしい業界で、コロナになってから悲惨な状況になったのか」といえば業界は元から悲惨な状況でそれがパンデミックにより可視化されただけのように思える。

同じように視点を広げて”社会全体”と考えても同じような気がする。

最近読んだ本に”物質的な貧困時代は終わった。これからはより意義や意味、心の豊かさを求めなければならない”と書かれていた。
アパレルでいえばファストファッションの台頭で「誰でも安価にお洒落が楽しめる」時代になっているということ。
つまりもう「物質的な欲」はある程度満たされ平均的な満足度はあがっているということ。

既に満たされているのにも関わらずまだ多くの企業はビジネスの目標として物質的な欲だけにフォーカスした製品を作っているから消費されていくだけになってしまう。

今は「なぜ私は存在するのか」という意義を探し出す時代になっている。
正解の定義されない多様化した世界でわかりやすいステータスを求めるのではなく「自分が生きていることへの納得感」が欲しいし「誰かの役に立つことが"ラグジュアリー"」になる。

近年よく耳にする「丁寧に暮らすこと」これもひとつのラグジュアリーであり自分たちが生きることへの納得感を得るための活動だ。
それ故にただの大量生産では求められないし、ただのお洒落服では飽きられてしまうのだ。

今書いてきたことは、コロナパンデミックだから始まったことではない。数年前から起きいたことで僕が前から話してきたことだ。今年は妙にそんなことが多い。コロナだから変わったこともあるけれどコロナ以前から同じように世界はずっとよくなかった。むしろコロナによって僕も含めて「もしかして世界ってこんなやばいのか、、?」と思っていたことが確信に変わってしまった。悪い物事はきっと気づいた瞬間からよくできる。

であれば僕らの現在地と方向は間違っていない、そう信じている。

2018年末に「”僕はやっとファッションデザイナーです”と名乗れるようになりました」と書いた。
2020年末、僕はファッションデザイナーとしての社会的な「使命」すら感じている。(口にするのは勇気がいるけれど)

個人的な話を少しすると、僕は今年で30歳になった。
30代、やるべきことはただ一つなのでこれまでの人生で一番視界がクリアだ。

またfoufouという大きくなりつつある生き物の、一つの”機能”としての自分を冷静にしかし情熱的に捉えている。

自分の生活や心の浮き沈みでfoufouが影響されてはいけない。1日1日を淡々と続け続けること。
つまり例えるなら心臓だ。一定のリズムで動き続ける。
それは速すぎても遅すぎてもよくない。平常心でい続けること。

外的要因がどうなるか全く不安定な世界で、僕らがやるべきは来年も変わらず「続ける」こと。

僕はチームのみんなに年末のミーティングでこう語った。

「こんな世の中でファッションで誰かを高揚させられるのは僕らくらいしかいないっしょ!2021年も攻めます。」


来年も服一本。
真摯に貪欲に、しかし品良く美しくチャーミングに。

僕はファッションデザイナー。
誰かの健康的な消費のために。

画像1

画像2

画像3

画像4

画像5

画像6

スクリーンショット 2020-12-31 18.16.11


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?