なぜ私たちは「りゅうちぇる」が嫌いなのか?

りゅうちぇる氏のご逝去を悼み、心よりお悔やみ申し上げます。
本稿では、りゅうちぇるの自殺を社会現象として、哲学と社会学から考察するものです。

「りゅうちぇる」と近代の呪縛
りゅうちぇるへの批判、その自殺への批判。それは、われわれが未だに近代の呪縛にとらわれていることに由来する。


①近代とは、いかなる時代か。


 近代とは、同一性の時代である。身分制のからの解放は、新しい近代の秩序への再埋め込みの過程であった(ギデンズ)。代表的な例に、エリクソンがいる。彼の議論を簡単に要約すると、「青年期に、『自分が何者かわからなくなる』アイデンティティの危機が訪れるが、社会的な役割と自己の同一性を見つけることで、『大人になる』」といった感じか。歴史的な文脈に引き付けると、近代における身分制からの解放によって、職業選択の自由に代表されるように、社会的な役割から自分の将来を見つけることが必要になった。しかし、圧倒的な自由の前に立ち尽くしてしまう若者が生まれる。これこそが、モラトリアムである。そして、国民や職場などへの帰属によってアイデンティティが醸成されることで、安定したお大人になることになる。
 このような近代に由来する同一性への要求には、もちろん「男」と「女」が含まれている。家族と性別役割分業は、近代の経済システムである産業社会に特有であり、近代に特有の同一性への要求である。いうまでもなく、りゅうちぇるは、この近代そのものが要求する同一性への要求を平然と超越して見せた。一度だけではない、二度だ。男から「女らしい男」へ、そして「女」へ。

②規範を破ること。規範を破った者を石打ちにすること。


 では、なぜりゅうちぇるが近代の同一性への要求を平然と超越することは、こんなにも私たちを逆なでしたのだろうか。なぜ過剰な批判と、度を越えた誹謗中傷を産んだのだろうか。「男」であるための規範を守ることで存在を証明するものとって、規範を平然と破ることは受け入れがたい行為であり、徹底的に攻撃すること、その攻撃をお互いに認めあうことで、アイデンティティを守る必要があったのだ。
私たちは、外部が自明に「何者になりなさい」を与えない、存在の理由を与えない社会を生きている。存在の理由が不在であることは、強烈に不安な経験である(ギデンズは「存在論的不安」と表現した)。同時に、社会は「何者かになりなさい」とは要求する。この要求は、さらに不安をあおることになる。平凡な人間は、性別役割分業を受け入れ、それを忠実に守ることで存在を安心させようとするのだ。
 しかし、性別役割分業とは、ベタに受け入れるには負荷がかかりすぎる。男らしくあれ、亭主たれ、父であれ、労働者であれ。女らしくあれ、妻であれ、母であれ、家事をやれ。多大な社会的な規範を守らなければならない。みな、なにやら愚痴をいいながら、この負荷を受け入れる。厳しい規範であればあるほど、お互いに苦しさを共有し、励まし合うことで、連帯感が生まれ、帰属感となり、より深くアイデンティティは沈殿する。
 そこに、りゅうちぇるはやってきた。オールドメディアでは、「新しい男性」のロールモデルとして提示した。緩やかに近代の性別役割分業が崩れつつあった現代日本では、ある程度受け入れられたようである。ただ厳しい規範を守ることで、アイデンティティを強固に守ってきた「男」にとって、受け入れがたいものである。さらに、りゅうちぇるは「女」になる。この超越は、「普通に男」として自己を定義する人々にとっても、受け入れがたいものである。特に「MtF」が問題になりがちなのは、昨今の状況を見れば、明らかであろう。規範を守り続けることで、自己の存在を証明する人々にとって、その規範を平然と二回も破られることは、受け入れがたい。強烈に攻撃することで、自己の立場を確認し、仲間から承認されることが必要であった。そして、その攻撃と承認欲求を満たすだけの技術的環境が整っていたことは、不幸なことであった。これは、「石打ち」なのだ。みなの前でさらし者に、みんなで石をなげることで、「あちら」と「こちら」の境界線が生まれる。平凡な私たちは、「こちら」になることで安心する。
 このように近代の同一性という呪縛は、強固な「男」というアイデンティティポリティックスをもたらす。その超越者を徹底的に排撃することで、その連帯を強化し、お互いに認め合うことで自己承認欲求を満たすのである。

③自殺について


 最後に別の視点から検討したい。近代とは、「生かす権力」が偏在化した時代でもある(フーコー)。これは、社会に偏在する権力装置からの要求である。すると、「生きること」自体が、新しい呪縛になりうる。こんなにも「平日に仕事をして、休日に皿を洗うこと」は大変なのに、その責任から「逃走」して死ぬとは許せない。「生きて責任を果たせ」。生きていなければならない、生きて責任を果たさなければならない、と要求を受け入れた(ポストモダニストなら「躾けられた」とか、「学校で教えてもらった」とか表現するだろう)人々からの、規則を破ったものへの石打ちである。

④最後に


 りうちぇるの実際について、私はなにも知らない。しかし、社会現象としての「りうちぇるの自殺」からは、近代の呪縛から逃れることができなかった人々の空しい自己承認の様子が伺い知れる。

参考文献
フーコー「性の歴史Ⅰ 知への意志」
ギデンズ「近代と自己アイデンティティ」
エリクソン「アイデンティティ」
デュルケーム「自殺論」

つたない文章・参考文献リストですが、ご容赦を。


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