人生はたまねぎ

人生は玉ねぎだ論

*大きいのも小さいのも、たまねぎはいろいろ個体差がある。しかしなかなか美しいものだねこうして見ると。

画像引用元:http://free-photos.gatag.net/

<人生は玉ねぎだ論>

玉ねぎ、ネギ属の多年草。その表皮。表に出てカサカサに乾燥してヒビ割れ茶色く色が付き、今にもハラリとくずれ落ちる。

でも玉ねぎに亀裂を入れて力を込め、一皮ムケばツルッと取れて。

すると今度は水気をたっぷり含んだ、スレてない、みずみずしい、細胞のひとつひとつまで見えるくらい透き通った、新しい皮が、新鮮な香りと共にあらわれる。

玉ネギは層だ。層になって、次の出番をいつも準備してる。

層は、たんなる集積ではない。お互いの層がピタッと粘着し、互いに保水しあっているその構造の精密さ。

剥かれるまでは、表に出るまでは一言も発しないそのひたむきさ。

球根として芽を出す、根を這わすための充実しきった野菜。

その中で層とは、自分の中にしかない宇宙の歴史、次元の時間性だ。

老若男女、いつの時代も、ひとの内面は個々に玉ねぎだ。層になってていくらでも剥かれるために存在するし、次世代への栄養、根となりうる。

剥かれ、繰り返し再生し新生する自分、それは意識、それは内面世界だ。

人の場合そこで問題になるのは「剥かれる」契機となりうるのはなにか?ということ。

それはひとつしかない。

内外からの批評や否定である。自分への抵抗勢力。

いまあるものから、本来の姿へ向かって脱皮するために、そうした一見ネガティヴな、要するに「痛み」が要求される。

ところがいつの世でも人は「批評や批判されるのなんかゴメンだ」というのが普通だ。

なぜって痛いのはいやだから。

だから世の中は満ちている。共感や感動、おつかれさまといった挨拶、おためごかしたコメントや安易な肯定など、うわべを取り繕うだけのもので。

たしかにだれでもわが身はかわいい。しかしそこでかわいがってるちっちゃな大事な自分は、ぼくらのほんの一部分でしかない。玉ねぎの表皮のさらに上の膜だ。

キャラや性格や外見など、ほんのうわずみに属するものなのだ。

そのうわずみしか見えてないから、ないものねだりで別の自分になりたくて、本屋には自己啓発本がどっさり並び、ネットは自称ノウハウの吹き溜まりと化している。

ファッションやメイク、最新のアミューズメントにお笑い芸人…

LINE、Twitter、Instagram、街のカフェ…それらはピーチクパーチクとしたおなぐさみのおしゃべりで満杯である。

そんななか、あたらしい自分は、そのおなぐさみに夢中になってる最中に、自分の内面に自動的にしっかり準備されてて、剥けて表に芽生える瞬間を待っている。

あたらしい自分はそこにしかいない。外にはない。これは誰にでも備わってる機能で、かつそのあたらしい自分は、人類最先端のあなたである。

そしてあなたが「毒のない」「チヤホヤされたがってる」「小さなカワイさ」などといった肯定感につつまれながらおしゃべりしてる間、「それ」は待機しつづける。言葉を替えると、押しとどめられている。

自己否定にフタをして、批評されるのを恐れてるうちの自分は、表皮への滞留状態だ。

ネットだとdisられたり、晒し者にされたり、揶揄されたり炎上しそうになったりすると逃げる。耳をふさぐ。

確かに聞き捨てるのが唯一の対処法であるノイズも多いが、そのレベルで自分が停滞してないか、いつも点検する。

意識高い系(笑)とか揶揄された程度で「世間には肯定が足りない」などと反発するのは、この態度からするとまるで逆の姿勢である。

世間はゆるふわの肯定ばかりだから、

自分の脱皮にマイナスに作用するから、だから罪なのだ。

傷つくべきときに傷付いて、へこたれるべきときにキッチリ凹む。そうして人ははじめて自浄作用、修復機能が作動する。

体裁のいい肯定。気分のいいポジティブさ。それは放棄と同義。

自分の飛躍をかすかにだが、確実に裏切っている。

新陳代謝、すてること、脱皮していくことの継続は、かならず尊いものになる。

そのことを、人の体は母胎にいるうちからとっくに知っている。

毎日つめは伸び、髪も肌も再生していくことの意味はなんなのか。

自分で自分を飼育してるんだ。自動的恒常的自然に。すごいじゃないか。

そう、カラダは知っている。人間の動物的部分は、実は先駆けてるんだ。

じゃあ精神の方はどうだ。年を重ねるたびに逆にどんどん固着してないか、沈殿してないか。

「かわいそうなボクちゃん」という上澄み部分を、後生大事にするあまり、ゴミ屋敷に住んでゴミの壁という「武装で」隠し、怠けてしまってないか。

そんなこんなしてるうちに人生80年で一皮も剥けないうちに死んでしまう人だって、いっぱいいるんじゃないのか。

だとしたらこんな不幸はない。自分にすら役立たない自分とは、何なのだ。

ぼくだってこのブログに毎回毎回こんな個人の内面の文を、大恥さらして書いてるが、あとから読み直すと、なんだこんな当たり前のこととくどくどと書いて悦に入りやがって、ケッ!なのである。自分で自分を呪いたくなる。踏みつけにしたくなる。

読んでくれてる人にもっともっとしっかり到達する、ガッツのある文を書かないと、といつも思う。

この記事は、そこらへんを特に意識して、今回書いた。

玉ねぎは剥いて剥いて、芯までムイて。

最後まで剥いたら、個体としてはサヨナラだ。

でも死んだんではないのよ。

次の玉ねぎの養分になるのさ。

今日は3.11だ。

<了>

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