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病歴と自分史と

受診のために簡潔に主訴をまとめるつもりが、長文なるのは、私の"あるある"なのね。『医療者には、現状だけでなくて、過去のつらい経験も理解してほしい』という気持ちがあるから。"知ってほしい"とか"わかってほしい"だなんて、なんだか子どもっぽい感情だな〜と、露呈させることに恥ずかしさを覚える。でもここは、ネットの荒波に紛れて、長くがんばってきた自分を労わってあげてもいいじゃないの。

そう思い、自分史(病歴重視)を書いてみた。

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記号は伏字

幼少期から手先の不器用さ、運動音痴さが目立つ子どもでした。

4歳のころに父親が大腸ガンで亡くなりました。それをきっかけに母親が精神的に不安定となり、私へのネグレクトが始まりました。その状態はおよそ8年ほど継続しました。

7歳(小学2年)の頃、近隣の小児科にてチック症を疑われましたが、特に診断名がつくこともなく、終診しています。

14歳(中学2年)の頃、40度近い熱発があり、その直後から身体の動かしづらさを自覚しました。同時に歌声の特定の音域がかすれるようになりました。近隣の内科を受診しましたが、特に異常はなく、終診しています。

18歳で大学へ入学しましたが、2015年の秋の熱発をきっかけに身体症状が悪化しました。長い距離の歩行が難しく、徒歩数分の通学のためにタクシーをしばしば使うようになりました。しっかりと睡眠を取ると、翌朝、起床後の数時間は身体の動きにくさが無くなる自覚があり、近医でそれを話すとハルシオンやデパスを処方されました。一定の効果があったため、心療内科を受診して継続的な処方を受けていました。そのうち、大学の試験時など体調を崩せない場面の前に、自己判断で処方量以上を服用するようになり、時に記憶がなくなるほど過量服薬してしまうことが出てきました。精神的にも不安定さが現れ、慢性的な倦怠感などの不定愁訴もあり、大学を中退しました。自律神経失調症として、××病院(精神科)にて入院加療しました。

入院中である2018年の10月、さらに身体症状が目立ち始めました。歩行不能(手すりがあれば少し可能)、右上肢の動かしづらさ(右肘を曲げてしまう/右掌を握ってしまうため、ものを持てない)により、日常生活に介助が必要となりました。▲▲病院(整形外科)でレントゲン検査を受けましたが異常は見つからず、××病院(精神科)にて2019年に転換性障害(心因性)との診断を受けました。全く動かない、力が入らないというわけではなく、歩行や食事などの動きが行えないだけだったので、心因性であるのと診断は妥当であると、自身でも感じていました。また、元来の不器用さ.は発達障害によるものだとも言われました。しかし、初回の心理検査では発達障害的傾向は皆無だと言われていたのにも関わらず、2回目の心理検査(身体の不自由さが増してから受けた検査)では広汎性発達障害である診断されたことから、自分では懐疑的に感じました。(なお、別の公的機関で受けた知能検査では、IQ的には知的障害だが、身体症状が影響しているため判定はできない、との結果でした。) 回復の目処がたたないまま入院期間が延びることや診断内容に疑問を覚え、2019年の夏に半ば無理やり退院しています。

退院後は近隣の整形外科で入院加療しましたが回復の目処が経たないまま2ヶ月ほどで退院しました。どこの病院でも治療にはつながらず、一時期受診せずに過ごしていました。そのうちに症状が進行し、手すりなどなんらかの介助があれば歩けていた状態から、立位不能、車椅子でないと移動困難となりました。完全に動かないわけではないが、無理やり動かすと強い痛みが生じ、常に全身に筋肉痛のような痛みを感じるようになりました。そうして、再度、治療につながる病院を探すようになりました。

2020年には大阪の整形外科で線維筋痛症との診断を受け、身体障害者手帳を取得しています。しかし、○○病院(線維筋痛症の専門医)とペインクリニックにて、症状にそぐわない部分があるから大きな病院で精査すべきだと勧められ、紹介状をいただきました。

2021年に◾︎◾︎病院の脳神経内科を受診し、現在の病名の診断を受けました。その後は身体障害者手帳を積極的に利用し、24時間365日のヘルパーの介助、訪問診療、訪問看護を受けながら、独居で生活しています。

2021年7月 在宅酸素の導入
2022年9月 胃ろう造設
2022年12月 NPPVの導入

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誰にとっても人生は波乱万丈。もっと自己開示したいしたいできごとはあるけれど、今日はここまで。受診用の主訴はまた別に作らなくては。

これからも生きていくことで、自分史を紡いでいこうね。

きえ







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