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音楽という魔物

おそらく生まれつき、私には絶対音感があった。音楽に携わっている者ならご存知だろうが、絶対音感は特に珍しいものではなく、褒められるものでもない。むしろ相対音感取得の邪魔になることから、嫌われることもある能力だ。私の場合、特に中途半端(特定の音質しかわからない&黒鍵は苦手etc)なので、なんの使い道もない。ただ、小さい頃から…いや、生まれつき、音楽が好きだったのだと思う。

幼稚園の頃、お遊戯会で合唱していた写真がある。足は肩幅に開き、人一倍大きな口を開けて、手は後ろで組む。見本のような姿。とある大人には「一人だけ張り切ってみっともない」と言われたが、無意識に張り切るくらい、歌うことが大好きだったのだ。

小学校2年のとき、初めて音楽室で専科のH先生の授業を受けた。(1年は教室で担任の先生がオルガンを弾く簡易的な授業であり、2年で初めて音楽室に入った)  そのH先生による1回目の授業で「将来わたしは音楽の先生になるんだ!」と決めた。なりたいという思いではなく、なるという決定事項。

H先生はどちらかというと怖いタイプの教師だった。授業中は面白おかしく雑談をするわけではなく真面目な印象で、たまにふざける男子に怒鳴り、ややとっつきにくかった。2人きりで話したことはほぼなかったが、わたしはH先生が大好きだった。尊敬の対象だった。もう一度会いたくて、演奏活動でもされていないか検索してみようと思ったが、下の名前を覚えておらず、なんの情報も得られなかった。

あるとき、とある大人に「おとなになったら音楽の先生になるの」と伝えたことがある。それに対する返答は「もっとマトモな職業に就きなさい」との言葉だった。その一瞬のやりとりで、音楽教師を目指すことは周りに言わないほうがいいんだと幼心に学んだ。今振り返ると音楽教師のどの辺にマトモじゃない要素があるのかわからないのが可笑しいけれど、私の夢は建前上、「学校の先生」に変更となった。

両親が音楽家なわけでもなく、自身が音楽の才能に長けてるわけでもなく。それでも志した道を逸れることなく歳を重ねた。中学に入って友人の影響で演劇に興味を持った。高校に入って歌劇の世界を知った。アングラ芝居、ミュージカル、世の中のキレイなものたち、キタナイものたち、なにもかもに心を打たれた。その中でも特に学びたいと感じたのがオペラだった。自らが舞台で演じ、歌えたらどんなに素敵だろう。そう夢見て、大学は音楽系の進路を選択した。

入試科目には主専攻である声楽だけでなく、いわゆる"副科ピアノ"が必須だった。インベンション1とモーツァルトのK545の譜面をなんとか追う程度の能力、といえば経験者には伝わるだろうか。なんにしろ、鍵盤のどこがドレミかくらいはわかるが、全く上手くはないということだ。指が思うように動かず苦労した。今から考えたら疾患の影響もあったのかもしれないが、言い訳に過ぎない。それでもなんとか進学できた。

主専攻の歌も決して上手くはなかったが、時々小さな演奏会に出演・企画し、チケットを買っていただいていた手前、卑下するわけにもいかない。値段相応の演奏だったと信じたい。

その後、中学時代から徐々に症状が現れていた身体の病気が進行し、歌も楽器も全く思い通りに演奏できなくなった。進学も就職も諦めた。身体の不調は絶対に周りには隠しとおした。舞台に立つなら自分が商品であり、不良品だとは知られたくなかったから。そんな背景もあり、メンタルはボロボロ。何度も「死にたい」と思いつつ、時に実行しつつ、精神科や周りの支援を受けて何とか生きてきた。

やっと身体の病名の診断がはっきりついた頃には、自分の身の回りのことは何ひとつできなくなっており、歌うどころか喋り声が出ない日さえあった。もう舞台には立てない、音楽教師にもなれない。意外にも大して悲しくなく、今までどおりYouTubeで演奏を聴いて楽しんだ。

といっても、音楽がよい趣味のひとつとなったのかといわれると、それは違う。なぜなら昔と同様、音楽に取り憑かれたままなのだ。辞められないのだ。好き嫌いの次元ではなく、わたしを形作る要素のひとつなのだ。上手くもない、プロにもアマチュアにもなれない。それなのに辞められないだなんて、本当に好きでたまらないのね、私。

5年間、小学校で音楽の授業を担当してくださったH先生、ありがとう。この感性は、あの授業で培われたんだ。今でも"はじめの歌"と"おわりの歌"のメロディは鳴らせるよ。明日からも、何ひとついうことを聞かない心身の欲求に従って、音楽を摂取して生きていくね。

きえ

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