いざ、修行道へ/有馬記念まであと1285日

エアシャカールから待望の呼び出しがかかったのは、ある土曜日の事だった。昼食が過ぎ、栗東寮のラウンジでウララを含めた生徒たちと映画のDVDを楽しんでいると、シャカールと同室のメイショウドトウがその事を教えてくれた。私はウララをそこに残し、ドトウに先導されながらシャカールの部屋へと向かった。

「ウララさんは、楽しい人ですね」
私の少し先を歩きながらドトウが言った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
「ラウンジでも、皆んなの中心でしたもんね。ちょっと、羨ましいな」

そう言って上目遣いに私を見るドトウは、とても控えめな女の子という印象が強いウマ娘だ。同室のシャカールや、オペラオー、それにフクキタルというような、目立つ性格のウマ娘達と一緒にいる事が多い所為もあるだろうが、どうしても自分の気持ちから一歩引いた部分があるように見える時がある。彼女はトレーナーが着いてから大分経つが、デビュー直後から伸び悩みが続いているという話も聞いた。そのあたりも、彼女を一歩引かせている原因の一つなのかもしれない。
だが私の目から見れば、彼女は成長スピードが遅いだけで、確実に成果は積み重ねているように思えた。成長スピードというのは、ウマ娘それぞれで全て異なる。ウララだってそうなのだ。私は、彼女は彼女のままでいいと思っていた。
「私は、あなたの方が羨ましいと思うわよ」
「え?」
「貴女の現役生活は始まったばかりよ。その未来は途方もなく広がっていて、貴女の足元から続いてるの。貴女はその場所からどんな道さえも歩いていける。それが羨ましいわ」
「そうでしょうか......」
「目標に辿り着くまでにどれだけ時間がかかってもいいじゃない?挑戦に溢れた未来っていうのも、きっと悪いものじゃないわ。その前に、貴女を目標としてターフを走るウマ娘が現れる方が先でしょうしね」
「え?そ、しょんな娘いませんりょ、うぇ......噛みました!?」
小さく口元を押さえるドトウを見て私が笑うと、彼女もまた、恥ずかしそうに笑った。

「空いてるぞ」

部屋の前へ辿り着き、ノックする前にそう声をかけられて、私はギョッとした。
「びっくりしますよね?でも、カメラなんかないんですよぉ......?でも、全然怖くないですから......ね?」
ドトウは少し頭を下げ、微笑んだ。いかにも『お察しします』とでも言いたげな、思いやりに満ちた笑顔を残して、ラウンジへと戻っていった。

一応のノックをしてからドアを開けると、カーテンが締め切られ、照明の落とされた室内にシャカールはいた。
大きな作業机に、見慣れた愛用のノートパソコンがあった。目を見張ったのはその机の下である。所謂自作機というものなのだろうか。巨大な筐体のデスクトップPCが置いてあり、高速で回転しているファンが低い唸り声を上げている。
薄暗い部屋の中、2枚の大型モニターが淡い光を放っていた。
その中央にあるゲーミングチェアの中で、エアシャカールがその空間の支配者としてそこにいた。
その反対側、ドトウのプライベートエリアと思われるいかにも女子らしい華やかさが逆に場違いで、異質だった。

「暗くて悪い」

シャカールはそう言いながら、私に一枚のタブレットPCを差し出した。私はそれを受け取り、スイッチを入れた。前置きはそれだけだった。全てのモニターとタブレットに様々な数字とグラフが浮かび上がり、画面が私達を引き込んでいった。

「先に言っておく」エアシャカールは、ノートパソコンのキーボードを叩きながら言った。「過分に期待するな。あくまで消去法の上に成り立つ仮説を元にした推理だ。現時点ではな」
おそらく同じファイルに目を通しているのだろう。シャカールが画面に示した数字についての説明が始まり、それぞれに解説を入れてくれた。私はそれに聞き入った。
「──以上の点から芝よりダートの方が向いているのは明らかだが、これはダートが主戦場だったから形成された、言わば獲得形質みたいなものだ。芝に関しては未知数とだけ言っておこう」
数字の羅列を補うよう、シャカールの解説が滑らかに間を埋めていく。過分に期待するな、と前置きした上でこの内容の濃さなのだから、毎度の事ながら驚かされる。

「今までで何か質問は?」

エアシャカールが画面から視線を外し、私の方を見て言った。私もタブレットから顔を上げ、言った。
「特有性は?」
「それは身体能力?それともレースの作戦上?」
「身体能力」
シャカールは頷き、プリントアウトしたグラフに何かを書き込むと、私に差し出した。
「おそらくパワータイプだ。全身の筋肉量の増加がストレートにタイムに反映してくる」
「やっぱりね。差しを軸にしていった方がいいのかしら」
「それはまた別の話だな。授業を重ねる毎にタイムが良くなってるのがその根拠ではあるんだが......まあ、今のところは、と思っておいた方がいい。何しろ、伸びしろしか無いようなヤツだ」
シャカールがわざわざプリントアウトしたグラフは、私が調査し続けたウララの授業でのタイムと、その伸び率を記していた。その折れ線グラフの2箇所に、赤い丸で囲った数字が見える。それぞれにアルファベットが割り振られていた。

「赤丸Aと赤丸Bっていうのは、何かしら」

シャカールは私の方を見ずに、モニターの下からUSBメモリを摘み上げると、それを私に見せた。

「今日の目玉だ」

エアシャカールが言った。
「結論から聞くか?それともいくつかの根拠を並べて解説しながら、それから結論を言おうか?」私は前者を選んだ。

シャカールはそのメモリを、いつものノートパソコンではなく大型のデスクトップパソコンに挿入すると、室内にある1番大きなモニター上にある動画を映し出した。
「結論から話すにしても、コイツは先に見てもらう。まずはAのレースだ」
その映像は、とある日のウララの模擬レースの模様だった。ウララは晴天の下、差しの展開を見せながらも、やはり良いところはなく、いつものように負けた。結果は最下位。悔しいがお馴染みの光景である。
「次いくぞ。Bのレース。カメラはウララを追うが4番の生徒をよく見ろ。特に......その顔、表情をだ」
シャカールに促されるままに、私はそうした。今度の模擬レースでも再びウララは差しのレースのを展開していくが、やはり負けた。しかし今回は3着の成績を見せた。ウララの顔も得意げではある。
「......?」
これのどこが──と言おうとした瞬間、4番の生徒がゴールした。ウララとは2馬身以上の差が開いており、彼女はゴールした瞬間に、地面に跪くようにして肩を激しく上下させていた。以降続々と生徒たちがゴールしてきたところで、映像は止まった。
「──気づいたか」
AとB。2つのレース。
いつもと同じ最下位。からの3着。
いかにもしんどそうな顔をした4番の生徒。
最下位から3着。
4番の生徒。
頭の中でそう何度か繰り返してから、私は、あっと声を上げた。4番の生徒は、その前のレースの勝者ではなかったか。
言葉はなかったが、私がその点に気づいた事を、シャカールは確認したのだろう。彼女は再び画面に目を向けると、今度は二つの動画を比較するように同時に再生した。
「オレにはこのレースの結果が、最初どうにも理解出来なかった。ほんの僅かな日数を空けただけで、ウララは一度負けた相手に勝った。しかし普通はこんな展開あり得ない。前のレースでの先頭としんがりまでは、6馬身以上の差が開いていた。そんな相手にまぐれで勝てると思うか?
4番に勝ったとはいえ、ウララは1着ではなかった。しかしこの際、勝ち負けはどうでもいい。重要なのはそこじゃない。4番は何故負けた?何故ウララは3着だった?4番は何故あんなに疲れている?その4番相手にウララは何故一度負けた?馬場状態も天気も距離も、ほとんど同じなんだぞ?」
矢継ぎ早に繰り出されるシャカールの疑問符を追いかけながら、私は頭の中を整理するので精一杯だった。
「それは、ウララのムラっ気というか──」
「違う」
シャカールの食い気味に入ってきた強い否定に、私は言葉を詰まらせた。
「それだと、この4番にも同じ欠点がないとこの結果は成立しない。それ程の差がある」
私は一度立てた仮定を取り下げ、もう一度考えた。
「4番が油断して手を抜いて、慌てて捲って──」
「それも違う。このレースはタイマン勝負じゃない。その油断は生まれない。おまけに、Bレースの4番は明らかに1着の生徒を意識して走っている」
私は頭を掻いた。シャカールが手にしている答えにどうしても近づきたかった。
「ウララの調子が上がった?」
シャカールは頷きはしたが、やはり私の言葉を否定した。
「その表現は相応しくない。しかし、ウララが前回よりも速い数字を出しているのは確かだ。それは何故だ。その言葉を使わずに考えてみろ」
調子が変わったという事を、別の言葉に置き換えればいいのだろうか。
いや──多分違う。発想を変えよう。ウララが何故速くなったか、ではなく、何故前回は遅かったか。それを考えるんだ。
私は、ループ再生されているAのレースの映像を食い入るように見つめた。そうしながら、私は一言づつ言葉を選び、言った。
「Aレースのウララが......途中で諦めた、っていう推理はどう?」
シャカールは今度こそはっきりと頷いた。
「そうだ。おそらくそれなんだ」
シャカールは満足気な表情を浮かべているが、私には、正直今まで並べたさまざまな言葉に差を見つけられずにいた。
「そろそろ結論といこうか」シャカールはゲーミングチェアを私の方向へわざわざ回し、正面から私の顔を見て言った。

「ウララは完全主義者なんだ」


私はその思いがけない単語に耳を疑い、身を乗り出した。
シャカールは続けた。
「完全主義者、いや完璧原理主義者とさえ言える。とにかく走りにに対しての思い入れが恐ろしく強いんだ。こういう風に走りたい、こういう展開に繋げたい、こういう風にゴールしたいというストーリーが物凄く綿密に組まれている」
あくまで仮説としながらも、シャカールの解説は熱を帯びた。
「だから思い通りにならなかった時、とたんに気持ちが切れて総崩れする。面白いのは、ウララは乱れた後も何度か新しい作戦に切り替えようとしている点だ。しかしそれが上手くいくとは限らない。だからまた乱れる。また気持ちが途切れ、タイムは更に遅くなる。グダグダの展開ってやつだ」
シャカールの言葉と私の記憶を照らし合わせると、その言葉はすっと私の胸に入ってきた。『次は勝ちたい』という、漠然としたものに聞こえるウララの気持ちの根底には、『こう勝ちたい』という強いストーリーがあったというのか。
「ウララのムラっ気はそこからきてるのね」
私の言葉に、シャカールは小さな苦笑を浮かべた。
「そこをムラっ気と呼んでしまうと見落としてしまうような、面白い特徴だな」
私も笑った。笑った後、ある一つの事実に辿り着き、また身を乗り出した。
「え──それじゃウララは、理論派なの?」
この私の言葉にも、シャカールは強く頷いた。
「そうだ。それもガッチガチのな。思考の傾向そのものはミホノブルボンやビワハヤヒデに近い。まず走りのイメージが先にあり、それを脚に伝えようとして走っている。それでいてサイレンススズカやトウカイテイオーのような『出来る人理論』を展開しているような輩とも違う。あいつを天然扱いしてる奴が多いだろうが、とんでもない話だ」
「タキオンと比べたら?」
シャカールはフン、と鼻を鳴らしながら、憎々しげに表情を歪めた。
「土俵が違う。アイツは化学変化が導く未知の結果を期待し過ぎて、堪えず実験を繰り返してるような奴だ。完全にイメージを固めてから走るウララとは、比較にならねぇよ。ウララはとにかく理論派なんだ。超の付く、弩級の、理論派なんだ。つまりは──」
シャカールは親指を立てて自身に向けながら、ニヤリと笑った。

「──こっち側のウマ娘ってことさ」

[newpage]

ウララが理論派と聞いて私がその時に思い出したのは、以前にオルフェーヴルに破り捨てられた、あの本の存在である。
ウララが以前、おそらく小学生と思われる時期に母親からもらったと言っていたあの本は、その時点で考えたとしても、相当古い代物だったはずだ。勿論私も読んだ事はあるが、あの本の内容は、今現在のウマ娘競技の傾向からすると、かなりの偏りがある。おまけに、今となっては誰も振り返ろうとしない理論についても相当書いてあるし、今だからわかる事だが、編集も不親切なところがあって読みにくい印象があった。あの本一冊のみを拠り所にしてきたというのなら、ウララの理論は、相当極端なものになっているに違いない。
そう考えると、あの取り憑かれたようなスリップストリームへの憧れも納得がいく。あの本にはあたかも新技術のように書いてあるが、今は違う。スリップストリームを使いこなすレーサーは多いし、対策も常識になっている。しかしあの本だけしか読んでいないウララの目には、カルチャーショックに近い衝撃があったに違いない。勿論、スリップストリームの価値が下がった訳ではないのだが、今の環境で単純に繰り出そうとしても、うまくいかない事の方が多いだろう。
画面を流れるレースの映像を見ながら、私の中にはそんな確信芽生えつつあった。

「今度は、こないだのヤツを見ながら話そうか」
そう言いながらシャカールが次に再生したのは、つい先日のターボとのマラソン勝負の映像だった。「えっと、これについての情報は、もう渡してたわよね?」
私も慌てて自分の手帳を取り出した。その中には先日、ツインターボとの合同練習で行ったマラソン勝負の一部始終が書いてある。もちろんその内容も、パソコンでまとめてからシャカールに渡していたはずだった。彼女は頷き、そして表情を歪めた。
「全く、とんでもない事を考えたもんだよ。ランニングならいざ知らず、勝負させるなんてな......まあそれはいい。良くはないが、とりあえず脇に置いておこう。
マラソンについては全く賛成出来たもんじゃないが、この勝負の映像は今回のウララの解析にかなりのプラスになった。本当に興味深いウマ娘だよ、ウララは。特にこの、足を溜めてからのスリップストリームなんか最高に面白い」
シャカールはそう言って、机脇のドリンクホルダーからタンブラーを掴み取ると、中身を口へと流し込んだ。中身は多分、私が差し入れしたロイヤルビタースムージーだろう。
「いいだろうコレ。USBの電力で冷やせるんだぜ」
「あ、うん。そうね」
私は上の空で答えた。画面の中は既に芝の3周目で、ターボをウララが差していくシーンが流されているのだから、目が離せる訳がない。
「ああ、いい脚だ──」
今私が考えているのと全く同じことを、シャカールはまるで悦に浸るかのように呟いた。
「あなたは、ここで何故ウララが差していけたのか、分かる?」
「ずいぶんと変な事を言うな。アンタは分からなかったのか?」
私は少し考えてから、黙って頷いた。
何故ウララは一定のペースで走り続けられたのか。
何故ウララは逃げを打つツインターボを追ったのか。
何故ウララはスリップストリームでターボを差し切れたのか。
勝負当日から時間が過ぎても、その三つは謎のままだった。
シャカールは言った。
「単純な話だ。ウララは6800mの全てで、脚を休めて走っていたんだ」
「まさか?だって6800mなのよ?」
「オレだってそう思わない訳じゃない。あくまで『そう考えれば説明がつく』という推理だ」
そう強調するシャカールではあったが、私にはとても信じられない話だった。だったら、ターボの仕掛けに付き合うことを無視し、その分のスタミナと脚を全て走破に向かわせる事が出来たとしたら、ウララはもっともっと速いペースであのマラソンを攻略する事が出来たわけだし、そうやって攻略するだけの下地が、最初から備わっていた事になる。
「多分、アンタが今考えている事も正しいんだ」
シャカールに思考を先回りされて、私は驚き、顔を上げた。
「え?」
「ウララの特徴のプラス面を捉えながら考えるとそれがわかる。ウララが展開している理論は、おそらくタイマンを強く意識しているんだ。特にあの時は、マラソンっていう超長距離の間、何度も思考を巡らせ、その都度集中力が高まったんだろう。1対1だから出来たんだ。走りのイメージをぶつける相手が1人だからな。もちろん、スリップストリームを使うことはスタート前から決めていたことだ。
あと、入試の記録を見てみればわかるが、基礎体力がそれなりに高いだろう?柔軟性以外は全て、僅かであれ平均以上の数字を出している。握力と腕立ての数字はオレの入試の時よりいい数字なんだ。
おまけあの勝負根性だ。呆れる程度胸が座っている。レース後のターボとの音声も入っていたが、アレにはもう笑うしかない。ウララは常に、勝つ事だけを考えて走っているに違いないんだ。
だが、いざレースに出るとあっさり負けるのもウララだ。何故か?集団の中で走るのはめちゃくちゃ苦手なのさ。7人8人、いや、ウララを含めて5人も並んで走ってしまうと、ウララの理論がとたんに通用しなくなる。集団の走りも意識してない訳じゃないが、それらに対しては全て後手後手で対応してしまう。予想外の事が起こりすぎて、対応出来なくなるんだ」
シャカールは再び椅子を回してノートパソコンに向きなおると、新しいグラフを呼び出しながら言った。その指先は滑らかにキーボードの上を踊り続けている。
「もっと単純な原因もあるぞ。そもそも運動神経が悪いんだ。頭の中の映像イメージを、手足に上手く伝えられない上に、イメージと実際の動きのズレも把握出来てない。集団になればなるほど、その弱点は顕著に露呈する。負けレースのフォームを見てみろ。バラバラもいいとこだ。リズムも悪い。これじゃ勝てる訳がない。あの3着のレースは、苦手とする集団の中で、イメージと動きの乱れがたまたま起きなかったからそうなったんだ。そうなる確率を聞きたいか?」
「ええ。いい数字ではないんでしょうけど」
「じゃあ教えてやる。全天候と全ての公式レース環境下において、ざっと0.12パーセント。1/8192って事さ」
シャカールは肩をすくめた。私はシャカールの次の言葉を待った。なにか救いのある言葉が欲しかった。
「そうだな......全部を前向きに捉えるなら、こういう事になる。差しでいくとしてだな、大逃げを打つ相手に最後の直線で喰らいつければ、形としては1対1になるだろう?そうすれば、ウララは走りの理論を全て相手にぶつけることが出来る。その途中、集団を相手にしている時は、それぞれの相手をタイマンで連続的に処理していく。集団というものの捉え方を変えるんだ。かなりの集中力が必要になるが、相当な強みになるぞ」
シャカールの言っていることは理解できた。だが、私の中で湧き上がってきた新たな疑問が大きくなり過ぎて、私はその話を続けることが出来なくなっていた。
「でも、待ってよ」私はシャカールの話に割り込むように話しかけた。「じゃあ、何?改めて聞くようだけど、ウララはセンスと地力だけで走ってたってわけ?高知時代も、あのマラソンも?」
とても信じられないような話だ。そしてそれは同時に、ウララの伸びしろがトレーニング次第では本当に無限大であるようにさえ思えた。
「そういう事になる。ただの希望的憶測じゃない。高知時代からの裏付けもあるぞ」
「何ですって?」
「高知時代のレーススケジュールを見たか?異常なまでの過密さを無傷で出場し通している。ただ単に体が丈夫なだけじゃなくて、殆どのレースで全力を出しきれてないから、結果的に余力を残した走りになっていたって事さ。これこそ地力が強い証拠だ。故障なんか、するわけがない」
シャカールは、僅かに首を捻りながらもそう答えた。彼女としても、これに関しては推測の域を出ていないのかもしれない。だがそれでも、私を興奮させるには十分すぎるものだった。
「なるほど......すごいわ。トレーニング次第でどこまでも改造していけるんじゃないかしら。とんでもない原石よ」
それを聞いたシャカールは、椅子の背もたれがしなる程背を伸ばし、ああ、と呻きながら真後ろに倒れた。
「トレーニングを続ければ、な。続けられればの話だ」
「どういう事?」
「そこでもウララのムラっ気が出るのさ。でも飽きっぽい訳じゃなくて、移り気なんだ。やりたい事が多すぎるのさ。自主練のデータを見たか?せっかくトレーニングを始めても、その運動が筋肉に働きかける前にやめてしまう。あと、理想の走りに対する執着心は恐ろしく強いくせに、その動きのイメージが体に伝えられていないから、いざとなるとどこをどう鍛えたら自分が改善されていくのか、わからないんだ」
今まで感じていたウララへの疑問点が次々と晴れていく中、明確な欠点が新たに露呈していく。ここから解決の糸口を探すとなると、かなり骨が折れそうだ。

「もう一つ課題がある」
シャカールはそう言いながら、ノートパソコン以外のPCの電源を落とすと、カーテンを開き、部屋の明かりを点けた。
「走りを強くイメージしてるって事は、それだけ思い込みが強いって事だ。つまり頑固者なんだよ、ウララは。やると決めたら必ずやってしまう。あのスリップストリームの時に見せたような勝負根性は、もちろん長所として評価出来るが、これはかなり手強いぞ。トレーニングにしてもそうだ。こっちで特別メニューを用意しようものなら、1人で隠れて自己流トレーニングをやりかねない。それが悪いわけじゃないが、常にオーバーワークに注意する必要がある。それで逃したレースも、少なからずあるはずだ」
私もまたタブレットの電源を落とし、シャカールにそれを返した。
「そこら辺も対応策はある。筋トレはサーキットトレーニングの様式を取り入れて、セット数を増やす。スタミナは呼吸を制限するマスクを付けながらサイクルマシンに乗れば、そういったムラっ気に対応できると思う」
私は頷き、シャカールは続けた。
「集中力そのものを上げたいなら、直接的な運動よりも、知的な創作活動の方が向いているかもしれない。やるんなら絵よりも、陶芸や彫刻の方がいい。一手一手が結果を作っていく過程がわかりやすいし、成長も記録しやすいだろう。楽器や歌も悪くない」
いいアイデアだとは思いつつ、私は運動にこだわりたかった。
ダンスなんかはどうだろう?以前にカラオケに連れて行った時には、音痴でもないし、リズム感も悪くないような気がした。連続する動きをフローチャートにしてトレースしていく事が出来ればいいのだから、トレーニングとしてはいい形になるかもしれない。
そこまで考えて、私はふっと思い付いた。
「──太極拳は?」
「何だと?」
「太極拳はどう?あのスローな動きならコピーしやすいし、集中力も養えそうな気がするわ。カンフーの型には歴史やストーリーもあるし、映画や漫画なんかのおかげで馴染み深いから、興味を持ってくれるかもしれない」
「なるほど、面白いところに目を付けたな。アンタは幸い、カンフーの達人だ。いい結果になると思うぜ」
シャカールはそう言って笑った。初めての具体的解決策が出て来たことに、私も喜んだ。
「頑固な思考回路については......正直、本人の気持ち次第だ。今やってること、これからやろうとしている事へのイメージを一新させることが必要不可欠だし、何より重要なのはそのタイミングだ。会話や行動の中に見える心境の変化に、逐一注意する必要がある。気長に待つしかないな」
それは相手がウララでなくても、そうするしかないだろう、と私は思った。まあ、頑固さは単に欠点ではないし、今は長所として付き合っていった方がいいのかもしれない。特にあの勝負根性は、大舞台では最高の武器になるに違いない。

その時、部屋のドアが勢いよく開くと、突然ウララが飛び込んできた。ラウンジでの映画の時間がひと段落したのだろう。興奮冷めやらぬ様子で身体を震わせ、今にも叫び出しそうな気配だった。
そしてウララは叫んだ。

「エイドリアーン!」
「な、なんだぁ?」
「エイドリアン!オレはやった!やったぞー!」

何かを持ち上げるかのように両腕を上げ、ウララは何度も、とある映画の登場人物の名を叫び、繰り返した。
「さっきまでラウンジで、映画のロッキーを見てたのよ。1と2を連続で」
「あ......なるほど」
そういえば、と私が思い出した事をシャカールに小声で告げると、彼女は納得したように頷いた。あの映画を立て続けに観た後なのだから、こうなるのが当然だと、ロジカルにそう考えたのだろう。まあ私に言わせれば、ウララの今の行動は、ロジックというより反射反応のようなものだ。
「ロッキーはすごいね!すごく頑張り屋さん!奥さんを本当に愛しているのもステキだけど、試合でもトレーニングでも絶対に諦めない!本当にすごいんだよ!」
私もロッキーシリーズは何度も見ている。シャカールでさえ、一通り目は通しているだろう。だが、感動という心の力は恐ろしいもので、私たちはウララの剣幕に押されて、ただ揃って、そうかそうかと首を縦に振るばかりだった。
不意に、シャカールが私に目配せをした。僅かに人差し指でウララを差し、「今だ。やれ」とその目が言っていた。
そうか、と私は頷き、言った。
「ねぇ、ウララ?ロッキーは私も大好きな映画なの。ウララはどこのシーンがお気に入り?」
「わたし?わたしはロッキーが頑張ってトレーニングするシーン!市場を走るとこも、腕立て伏せも、バシンバシン叩いてたサンドバッグも!ニワトリも!全部すごかった!」
シャカールがニヤリと露骨にほくそ笑み、私は心の中で同じ表情を作った。いい具合に食いついたようだ。
「ウララは、ああいうトレーニング、どう思う?してみたい?」
「うん!わたし、ロッキーより頑張って、ロッキーより強くなるよ!」
「じゃあ明日から、ロッキー流のトレーニングでいくわよ?筋トレはどんなものでも3分続けて、1分のインターバル。その繰り返しを15回。ロッキーやアポロと同じ15ラウンドを毎日闘うのよ?あとはロードワークね。サイクルマシンと、縄跳びもやろうかな?どう?出来そう?」
そんな私の提案に、ウララの瞳の中に花が咲いた。
「それ凄くカッコいい!わたし、それやるよ!絶対やる!」
「決まりね」
自己流のワンツーを披露しながら歓喜するウララ。そんなウララを目の前に置いて、私はシャカールとささやかに握手を交わした。

修行の道というものは、常に厳しく険しいものだ。
しかし、私たちは今、間違いなく追い風の中にいる。
私はそう感じながら、ウララの背中を見つめた。

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