目指せ、いちまんメートル/有馬記念まであと1294日

10200mを走り切ること。走りれなかった場合はリタイヤとする。そんな単純明確なルールを、私たちは何度も確認した。
「いい?無理なんかしてたら絶対走り切れる距離じゃないからね?頑張るのはいいけど、無理はダメよ?」
「うん!」
「2人とも慣れないでしょうけど、出来るだけ同じペースで走る事がコツです。最後の最後までスタミナを残せるよう、一定のペースで走るのが大事ですよ」
「わかった!」
「腕の振りは小さく、歩幅も小さく。アップのランニングのつもりで構わない。最初に掴んだリズムに身を任せて走る。無理に体を前に出さなくていいからな」
私と南坂のアドバイスに2人は終始頷き、沖野にもまた同様に返事をした。

さあ、いよいよである。

ゴールドシップがコース中央に立ち、それぞれにストップウォッチを持った両手を高く構えた。
「いくぞ!カウントいきなり5!4!」
2人は一度、視線を交わした。「3!」
後ろ足を引き、拳を作る。2人とも、オーソドックスなスターティングポジションだ。
顔が正面を向き、2人同時に息を吸い込むのがわかった。
気合いは十分と見える。
「2!1!ゴー!お前ら、生きて帰れよ!」
ゴールドシップが掛け声と共に腕を大きくクロスさせた。その合図と同時に、2人はついに駆け出した。


最初のコースは芝である。やはりツインターボが優勢だ。ストレートを難なく攻略し、コーナーでさらに伸びを見せている。一方、芝に慣れないウララはというと、スタート直後から差を広げられ、第2コーナーで既に3馬身の差をつけられていた。

「ウララ!慌てなくていいからな!ターボもマイペースでいけよ!」

スタート地点に立つゴールドシップが、遠く離れた2人に激を飛ばす。しかもその内容は2人の勝負熱を冷まさないまま、その上でそれとなく注意を与えている。かなりの気配りが整ったコーチングである。私は少し驚いた。ああ見えて性格の根は優しく、アスリートとしては真面目なのだろう。
「実によく出来たお子さんをお持ちで」
私はそう言いながら沖野を振り返ると、沖野は既に苦笑いで顔をいっぱいにしていた。
「俺としては、早く嫁に出したい気分でいっぱいですよ」
「でも、もしそうなったら泣くでしょ、沖野さん」
南坂が珍しく軽口を叩いた。
「へっ?泣くもんかよ」
「いや、泣きますね。地面叩いて咽び泣きますね。絶対」
「お前こそなぁ、ネイチャが嫁に行ったらアレだろ、泣くだろ?」
沖野にそう言われた瞬間、南坂の眉がハの字に下がった。
「それは......泣きますね」
「あ、うん......それでいいと思うよ、お前は」
本当に今にも泣き出しそうな南坂を見て、沖野がたまらず真顔になる。そんなやりとりに私は我慢が出来ず、声に出して笑ってしまった。

一周目が終わった。

「芝!ツインターボ!5分14秒!南坂っち!記録してくれよ!」

ターボはダートコースへと進んだ。良馬場の下、深く沈んでいくつま先の重さを感じたのか、一瞬、ターボの表情が曇った気がした。

「芝!ハルウララ!5分29秒!5分29秒!」

ウララもまた、ゴールドシップの脇を走り抜けると、ダートへと移行した。砂の上を数歩進んだかと思うと、まるで背中を押されたかのように加速していく。
「ウララさんはダートで挽回できるでしょうか」
南坂が記録紙にペンを走らせながら、ウララの動きを目で追った。
「そうねぇ......ダートの方が得意ではあるし。でも、まだそう焦るような時じゃないと思うんだけど」
「うーん」
南坂の表情は不安気だ。しかしウララは、僅かづつではあるが、淀みなく遅れを取り戻していく。

「ウララ!落ち着け!まだ慌てなくていい!」

ゴールドシップからも注意が飛ぶ。だがウララは、早くもツインターボの背中を捕らえる勢いだった。

(いや、ウララが上がってるんじゃない。ターボだ。ターボが下がってる......?)

私は思った。いくらダートであるとはいえ、ツインターボのペースダウンはあからさまだ。間違いなく意図があるに違いない。

(......脚を休めてるのか?)

おそらく、不得意なダート上でスタミナが浪費されるのを防ごうとしているのだろう。そして次の芝でペースを上げ、次のアドバンテージを稼ごうという作戦が見てとれた。

(ウララは、気付いてるかしら?)

スタミナを残そうとしているツインターボは、最後の周回で必ずスタミナを使い切る走法で仕掛けてくるだろう。それに対してどうウララが動いていけるかは気になるところではあるものの、このマラソンを勝負と見た場合、肝心なのは走破である。スタミナが尽きてしまえば、そこで終了。勝負無しのリタイヤだ。そのリタイヤを逃れつつ、ターボを抑え込む方法はあるのだろうか。私は腕組みをしつつ、2人の走りを見守った。

「ダート一周目!ツインターボ!5分10秒!ハルウララ!4分58秒!」

「ターボさん、明らかにペースを下げましたね」
南坂がペンを走らせながら言った。
「一方でウララさんは、マイペースといったところでしょうか」
「そうね。ウララのタイムが縮んだのは、ダートの地の利が働いたのと、単にコースが短いからだと思うわ。本人としては、芝と同じリズムで走ってるんだと思う」
「それでいいと思うぜ?何しろ初の取り組みだからな。俺としては、ああしてペースのアップダウンを繰り返すのは感心しないよ。とにかくリズム。一定のリズムに乗ること。これ大事」
私には、沖野の判断が正しいと思えた。ツインターボには、おそらくダートコースをレースと意識しながら走った経験はないだろう。勝負相手が存在する中での細かいペースコントロールは、逆にスタミナが大きく削られる可能性もある。判断の難しいところだ。実際、再び舞台は芝となり、ターボとウララとの差が徐々に広がっていきつつも、ターボの表情に余裕は見られなかった。

「トレーナーが3人も揃ってるから何だと思えば......走ってるのはツインターボと?誰だ、あの娘は?」
背後から声がして振り向くと、黒髭とサングラスがトレードマークの、黒沼トレーナーの姿があった。そしてその隣には、彼の担当ウマ娘であるミホノブルボンの姿もある。
「あら、黒沼トレーナー」
「ヒゲさんとブルボンさんじゃないですか。こんにちは」
「あ、どーもヒゲさん。どーもどーも」
私たちは2人にそう挨拶し、またコースを走る2人へと目を向けた。
「誰なんだ?おい南坂、早く教えろ」
黒沼は、沖野と南坂の顔の間に自分の首を突っ込むようにして2人に視線を合わせると、コースを走る2人を目で追いかけ始めた。
男トレーナーが3人集まって首を揃えて動かしている様は、なかなか面白い光景だな、と私は思った。
「マスター、あの後方を走るウマ娘は、たしかハルウララという名前です」
トレーナーに倣うようして視線を動かしていたミホノブルボンが、ハルウララを見つめたままそう言った。
「何?お前、知ってるのか?」
「ええ。新入生、という以外の情報はないのですが」
「そうか......いや、思い出したぞ。例の奨学生だな」
「はい、そうです」
ブルボンの瞳、その奥が静かに光った気がする。その脳内では何層ものフォルダが開かれ、ウララに関するあらゆる情報が検索されているようだった。
「それで?今、どういう状況なんだ?」
黒沼は、南坂のスーツの裾を小さく引き、説明を促した。
「早く教えろ。教えないと、俺のヒゲを貴様の鼻毛と入れ替えるぞ」
「え!?」
「それでもいいのか?このヒゲはよく伸びるぞ。一日に5mだ。地球が滅亡するまで伸び続けるぞ」
黒沼流の冗談なのだろうか。初めて聞いた気がするが、そのあまりにも強すぎるワードチョイスに、私は少し引いた。南坂もまた、それは勘弁と思ったのだろう。慌てたように事の成り行きをかいつまんで説明した。 
10200メートルのマラソン勝負と聞いた黒沼は、酷く驚いたようだ。
「またなんとも大胆な事をしたな、お前たちは」黒沼は僅かにサングラスを下にずらし、走る2人を眺めた。人前でサングラスの下を覗かせるのは、よほど珍しい事なのだろう。ブルボンが驚いた様子で身を乗り出した程だ。
「で?今優勢なのは?どっちだ?」
黒沼がそう言った時、ゴールドシップの声が大きく響いた。

「芝二周目!ツインターボ!4分52秒!おい大丈夫かお前!?」

ゴールドシップが、一周目とのタイムの差に気づいたのだろう。ストップウォッチを見つめて目を丸くしている。
思った通りだ。ターボは芝で飛ばし、ダートで休む作戦をとっている。しかしペースアップとダウンの差が激しすぎる。意図は理解出来るが、私には心配に思えた。

続いてウララがコースを切り替えた。ペースアップしたターボからは、再び大きく離されているが、タイムはどうなっただろう。

「げげっ!?」

ゴールドシップが素っ頓狂な声を上げたので、私たちは怪訝に顔を見合わせた。
「何だゴルシ?ウララのタイムはどうした!」
沖野がそう呼びかけると、ゴールドシップは慌てたようにタイムを読み上げた。
「あ......いやスマン!ウララ芝二周目!5分29秒!」
言葉を追う南坂のペンが、一瞬止まる。
「1周目と同じタイム......これは意図的でしょうか」
「何だと?」
南坂は黒沼に耳打ちした。
「ヒゲさん、今彼女は、前の周回と全く同じタイムを刻んだんです」
すると、それを聞いたミホノブルボンの表情が変わった。
「そんな事が出来るウマ娘なのですか?」
私はそれに答えず黙っていたが、その驚いた表情は理解できた。つまりウララは、同じペースで走れるか否かが勝負を分けるこのマラソンで、全く同じペースで走り続ける事に成功しているのだ。
「沖野トレーナー、ウララの走りに変な乱れはあった?モタついたり、不自然な加速は?」
沖野は肘を抱き、顎をしきりに撫でている。ウララの二周目を、頭の中で再生させているのだろう。
「いや、見る限り自然だった。ルビーさん、彼女は間違いなく同じペースで走っているんだよ。凄いぞ彼女?なかなか出来る事じゃないよ」
私にもそう思えた。初見の距離でこれが出来るウマ娘はそうそういないだろう。

二周目となったダートでも、ウララはダートコース也の加速を見せ、ターボは明らかな減速を示して走っている。
「どうなっちまうんだ?この勝負」沖野が2人を見つめながら言った。「なあ、南坂よ」
「ええ......ターボさんの作戦は変わらないようですが、ペースを乱しすぎています。注意しなければなりませんね」
南坂が私を見た。その目配せに気づき、私はゴールドシップに声をかけた。もう最悪の事態を頭に入れておくべきタイミングのようだ。
「──ゴールドシップ!」
「おお?何だ!?」
「2人の走りに無理があるように見えたら、その時はタックルでも何でもいい!止めなさい!」
私の声を聞いたゴールドシップは一瞬意外そうな顔を見せたが、すぐさま私たちの意図を理解すると、その肘を突き上げて私たちにアピールした
「任せろ!」
黒沼もまた、その様子を黙って見ていたが、隣に立つブルボンに対し、同じ指示を出した。
「マスターの仰せのままに──しかし」
ブルボンは一度言葉を区切ると、黒沼を見上げ、言った。
「精神は肉体を解放する、精神は肉体を超えられる──それがあなたの教えです。私は、そこを注視します」
黒沼は頷いた。
「わかった。お前に任せる」
そして、黒沼は私を見た。
「俺たちも協力する。安心しろ。コイツの加速は半端じゃねぇぞ」
そして私たちは、その瞬間が訪れない事を祈りながら、ゴールドシップの立つコース切り替え地点へと歩き出したのだった。

「さあ、頑張れ2人とも!ラスト一周づつだぞ!」
ゴールドシップが激を飛ばし、2人が目の前を通り過ぎていく。
「ダート二周目!ターボ、5分12秒!ウララ!4分58秒!」

(やはり同じタイム......)

ウララはまるで狙っているかのように、同じタイムを刻んでくる。南坂が持っている記録紙の数字を、4人のトレーナーが雁首揃えて覗き込んでいるという光景は、実に物々しく、奇妙なものであった。
「マラソンってさ」沖野が言った。「とにかくペースコントロールが肝になるんだよ」
南坂が沖野の顔を覗き込んだ。
「そういえば沖野さん、駅伝経験者でしたね」
「まあ、高校の時だけどな──上下の傾斜や地面の感触、それに周囲の相手。そんなものを確かめながら、確実に、『自分の』ペースで走れるかどうかが肝になるんだ。最後の最後は自分自身との戦いになるからな」
そんな言葉に、南坂と黒沼は、揃って深く頷いた。
「周回があって、それぞれの距離が短いから出来るのかしら?」
私の意見に答えたのは南坂だった。
「確かに、それはあるかもしれません。タイムもその都度聴こえてくるから、その分意識はしやすいですよね」
その時である。
ミホノブルボンが叫んだ。

「ツインターボが仕掛けました!」

その声に誘われて顔を上げると、芝の3周目、第1コーナーに差し掛かったツインターボが、明らかなスパートをかけ始めていた。今までのランニングのようなフォームとは異なり、体は完全な前傾姿勢を見せている。

「うぁあああ!」

苦悶の叫び声がグランドに響く。ウマ娘からしてみればトップスピードからは程遠いペースとはいえ、ターボはほぼ人間族のマラソン競技と遜色のない、あるいはそれ以上の走りを見せていた。その状態で都合6800mを走破した後の、明確に勝負を意識した猛ダッシュである。ターボの叫び声は、まさにターボの肉体、その筋肉の悲鳴そのものに思えた。
「この芝を逃げ切って、リードを広げるつもりだ。ターボは最後の周回のダートでは、勝負出来ないと踏んだんだ!」
沖野もまた叫び、焦ったように南坂を見た。
「おい大丈夫なのか?まだ止めないのか?」
しかし南坂は、口を一文字に結んだまま、ただターボの走りを見つめるだけだった。
「おい、南坂!まだ2000m以上残ってるんだぞ!」
「まだです!」南坂がグランドを指差した。「あれを、見て下さい!」
私と沖野、そして黒沼とブルボンは南坂の指差す方向を見た。
「ハルウララが動いた!?」
ターボに対して5馬身後方、芝コースに入ったウララが、スパートをかけたターボと同様、凄まじい勢いで芝を蹴っていた。

「負けなぁああい!」

気合一閃、雄叫びを上げながらウララが直線を突き進んでいく。しかし足元の芝に足を取られるのか、その加速は僅かに鈍い。だがその差は徐々に、徐々に詰まっていった。
「何で今なんだ!?ダートが一周残っているんだ、そっちの方が有利なのに!」
「踊らされたのかもしれません。ターボさんが仕掛けたスパートを意識し過ぎたんでしょう。あれじゃ、芝が終わる前に潰れますよ!」
「まさか!あんなに落ち着いて走っていたじゃないか!」
沖野が焦り、南坂が状況を推察する。私もまた、何がウララに起こったのかはまるでわからなかった。これまで、ウララは全く同じペースで走る程の落ち着きを見せていた。間違いなく、意図的にそうしたのだ。勝負はともかく、10200mという長距離を走破するには最高の作戦だったのに──何故。

「ゴールドシップ!」

私は躊躇わず叫んだ。ゴールドシップもまた、2人の様子を異常と理解したのだろう。既に大きく後ろ足を引き、今にも駆け出さんと体勢を整えていた。

「おい見ろ!ハルウララがツインターボを捉えるぞ!差し切れるのか!?あの位置から!」

黒沼の声が飛んだ。

「ターボちゃあああん!」
「負けてたまるかあぁぁ!」
「絶対、抜くから!」
「抜けるもんなら......抜いてみろおぉおお!」

2人の叫びが混ざり合い、グランドの空に響いては消えていく。

第三コーナー、第四コーナーと進む中、また1馬身、また1/2馬身と差が詰まっていく。今やウララのスピードは、ツインターボを完全に上回っていた。そしてついにストレートに差し掛かった時、ウララはまるで、ツインターボの影の中で息を潜めるかのように張り付いた。

「きます!」

南坂の声の一瞬後、ウララはターボを抜き去った。力強いサイドステップから、それまでの強引さが嘘のような、浮遊感を感じさせる程の滑らかな加速に私は目を見張った。あれは──

(わたし、いっぺんやってみたいんだ──)

「スリップストリームだわ!」

私の脳裏に、以前にそう言っていたウララの笑顔が思い出され、私は思わずそう叫んだ。
「何だと?あいつ、そんな事が出来るのか?」
黒沼の疑問に、私は少し迷いながら答えた。
「わからない。ただ、前に言っていたのよ。一度やってみたいって」
「そんな理由で、か......?」
二の句が継げず、理解さえ追いついていない黒沼の隣で、沖野とゴールドシップはいかにも感心したような表情を見せた。
「こいつは驚いたね......逃げウマ相手のタイマン勝負にスリップストリームとは。ずいぶんとロマンチックな走りをしてくれるじゃないか」
「すっげぇなアイツ!アタシも一緒に走りゃよかったぜ!奨学生の看板は伊達じゃないってコトかぁ?」
ゴールドシップはそう言って私を見た。しかし私は、ウララの動きから目が離せずにいた。

ハナから、頭。
そして1馬身。
ウララがそうやって差を広げ、我々の立つコース切り替え地点まで残るところ2ハロンとなった頃、事態が急変した。
「あっ!」
ツインターボが急激に失速し、顔が下を向いた。それと同時に、ウララのピッチが大きく乱れ、上体がフラついた。2人のスタミナ切れは明らかだった。

両者ここまでか。

「ゴルシ!ブルボン!」

私よりも早く沖野がそう叫ぶと、2人は弾かれたように駆け出した。その手には既に給水ボトルが握られている。既に距離が短くなっていたことと、後ろから追う形ではなかったのが幸いして、2人への救護はすぐさま行われた。

「まあその、なんだ」沖野が、急に思い出したかのように呟いた。「ああなったら、こうなるよな」
「......はい。そうですね」
と、南坂は残念そうだ。いつもとは違う経験をさせてやろうとした事が、仇になったとまではいかないものの、マラソン勝負は両者リタイヤという結果になってしまった事を、悔いているのかもしれない。
私も同じ気持ちだった。

「おい、ターボ!しっかりしろ!ブルボン、ウララを見てやってくれ!」
視線の向こうにいるターボとウララは、疲労は激しいものの、それ以外に心配するような事は無いようだった。保水を受け、その場で僅かにマッサージを受けると、ゴールドシップとミホノフルボン、それぞれの肩を借りながらゆっくりとこちらへ向かって歩き出した。

「あ、トレーナー......」
ウララがまるで思い出したように私を見た。肩で息をつき、膝が震えていた。そして、何かを言いたそうな瞳を私に向けるが、激しく吐息を漏らすばかりで、まだ言葉には出来ないようだ。

「おい、ウララ......」

ゴールドシップに肩を借りながら、ツインターボがよろけつつもウララに近づいてきた。
「逃げ切れると思ったのに......お前......凄いな......」
ウララと同じく、激しく漏れる吐息の間を縫うように、ターボがウララに声をかけた。
「次は......負けないぞ......最初から最後まで......ターボが......逃げ切る」
「ターボちゃん......また......コレ、やるの......?」
「あ、あた......あたりまえだ......次は......走り切って、ターボの......勝ちだ」
すると、ミホノブルボンに後ろから支えられて、ようやく立っているウララが、ターボの顔の前に人差し指を、一本、立てて突き出した。
「じゃ......も、もう一回、やろう......」
ウララは懸命に腕を伸ばし、ターボの顔を覗き込んだ。
「ああ、や......るぞ!」
「い......1時間後......もう一回グランドに......、集合だよ!」
「え......?いぇ!?」
ウララの声は、まるで力の無い、蚊の鳴くようなものだった。しかしそれを聞いたターボは、まるで肝を抜かれたかのように目を白黒させると、ゴールドシップに身を預けながら、へなへなと膝から崩れ落ちた。
「あ、おい!ツインターボ?しっかりしろ!......あ、ダメだぁ。コイツ、気を失ってるぜ」
「へへっ..,..」
ウララは、慌てるゴールドシップに何度も頬を叩かれるターボの姿を見下ろすと、私を見た。
「ウララの......かちぃ......勝ち......」
ウララはそう言って笑い、よれよれのピースサインを作ると、嬉しそうに笑ったまま、気を失ってしまった。

「保健室へ運びましょう。怪我はないようですし、気力が尽きただけですよ。私が付き添います」
南坂はそう言って、ゴールドシップとブルボンを促し、歩き出そうとした。
「私も行くわ」
「ゴルシ、俺も行くぞ」
それに沖野と私が倣い、5人の後を歩いた。

「俺はここでいいか?」

振り返ると、黒沼がポケットに手を突っ込んだまま、私たちを見ていた。
「じゃ、後でな」
そう告げた相手はブルボンなのだろう。黒沼はそれだけ言うと踵を返そうとした。
「黒沼トレーナー、今のマラソンについて、後でお話を聞かせてもらえますか?是非参考にしたいので」
南坂がその背中にそう声をかけると、黒沼は歩みを止めた。
「そういう事なら、今のうちに二、三言っておくぞ」
私は先を急ぐ4人引率を沖野に任せると、南坂と2人、グランドに残った。
黒沼は言った。
「あの2人、全く見上げた勝負根性だ。特にハルウララ──相手の土俵で勝負を決めようとしたハートの強さも大したものだが、その後、延長戦にも似た舌戦を制している。ツインターボは本気で再戦を希望していたのだろうが、あの印象ではかなりのトラウマを背負わされたに違いない。もし苦手意識が芽生えたなら、ターボは一生、10000mでウララには勝てないだろうな」
黒沼はそこまで言うと一つ咳払いをし、続けた。
「後は苦言が山ほどあるが、これだけは今言っておくぞ。俺たちの勝負──つまりウマ娘たちのレースにおいて、『レースに負けて勝負に勝つ』という格言は決して成り立たない。今日の勝負がルール上で両者リタイヤという結果になってしまった事を、その原因があの無謀な勝負への執着心であったという事を、アンタ方はあの2人に教えなくてはならない──以上だ」
そう言い終えると黒沼はついに歩き出し、そのままグランドから姿を消した。

「──だ、そうです」 
すっかり見えなくなってしまった黒沼への視線を私の方へ向けて、南坂は言った。
「ルビーさんはどう思われますか?」
私もまた髪をかき上げながら、南坂を見た。
「確かにその通りだと思うわ。私たちは、マラソンという新しい勝負をあの子たちにさせたけれど、あの子たちの勝負根性を甘く見ていた。闘争本能は、ウマ娘の持つ最大の精神的特徴だわ。ウマ娘が勝負を意識した時に、相手を何としてでも打ち負かそうと考えたら最後、後々になって思い返しても絶対に覆らない勝ち方を選ぶもの。100回戦ったらその100回全て、そう思うのよ。私自身がウマ娘だというのに、あの2人を本能のまま戦わせてしまった。反省すべき点は先ずそこね」
南坂は、黙って頷いた。

私たちは用意していた各々の荷物を、手早く片付けた。
「しかしルビーさん、私はウララさんがあそこまで走れるとは思いませんでした。正直、ターボさんが周回差を着けて勝つと思ってましたからね」
「あらずいぶんな事を言うじゃない?実際のところ私もそれを心配していたけれど、途中からその心配はなくなってたわよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そうよ」
私は手を止め、グランドに目を向けると、あの2人の走りをもう一度頭の中に思い描いた。
「だって、あんなに楽しそうに走っていたんだもの」
そんな私を見て、南坂は穏やかに笑った。
「ウララさんの笑顔は、何というか、私たちの励みにもなりますね」
「そうなのよね」
私はスポーツバッグを抱え直し、忘れ物がないかその場を見渡した。
「また並走する?」
「是非。いつでも」
そう返す南坂も、既に荷物はまとめてあるようだ。
私たちは歩き出した。もう既に保健室にはたどり着いただろうが、2人が心配だ。
「マラソンはしばらくやらないわよ?」
「ええもちろん。でも、あの2人がその気になった時が、今から楽しみですよ」
私は隣を急ぐ南坂を見た。
「あなたも、いい笑顔するじゃない」
「──え?」
「楽しかった?」
「──ええ。楽しかったですよ」

私たちは、2人の待つ保健室へと道を急いだ。






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