ONE PIECE考察⚠️ネタバレ有⚠️『燃えてなんぼの黒炭に候』〜『忍者海賊ミンク侍同盟再結成』

 『ONE PIECE』ワノ国編が終幕を迎えた第1057話(週刊少年ジャンプ2022年38号掲載)、その終盤で使われた「燃えてなんぼの黒炭に候」という文言に対して、SNS上でにわかに議論が巻き起こっている。
 この話題に関する様々な意見を有志の方がまとめたサイトを拝見すると、議論の焦点は以下のようである。

 『現ワノ国の国民がオロチの悪政によって20年間虐げられることとなったそもそもの要因は、先代のワノ国国民による黒炭家に対する迫害であり、オロチは現国民にとっては紛れもなく加害者であるが、それと同時に先代国民達の愚行が生んだ被害者でもある。
 それなのに「燃えてなんぼの黒炭に候」という、一方的に黒炭家を悪とするような懲悪的なキャッチコピーを掲げることは、先代達の責任問題に向き合っていないばかりか、黒炭に対する新たな憎しみを後世に植え付け、次なる迫害の歴史を生んでしまうのではないか?』

というのが反感を示している方達の概ねの意見であるようだ。

 私は“尾田イズム”のたゆまぬ信者であることを自負しているので、先生がどのような表現をされようとも(法的や倫理的に問題がなければ)基本的には必ず何か意図があるに違いないと考え、受け入れる姿勢である。
 しかし、今回のトピックに関しては、異論を唱えている方々の意見にも部分的に納得できる箇所があるので、あくまでも個人的な解釈&見解をベースに、この問題を多角的に見つめ直すことで、来週から始まる最終章の幕開けを気持ちよく迎えたいと思い、筆を執った次第である。

◆『1057話』講談シーン=事実をベースとした創作?

 問題となった日和姫の決め台詞が登場する1057話(“終幕”)、ここで描かれているオロチ成敗の場面は、実際の出来事をベースとしながら、聴衆を惹きつけるため所々に脚色を盛り込んだ、いわば事実を誇張した『作り話』ではないかと私は思っている。
(そもそも講談とはそういうものなのかも知れないが、いかんせん門外漢のため、正直に申し上げて、詳細については不明である。機会があればいずれ調べてみることにしよう——)

一つ目の根拠、『喋るオロチの生首』

 1057話の講談シーンで語られているのは、1048話(“二十年”/週刊少年ジャンプ2022年23号掲載)における、傳ジローと日和姫によるオロチの討伐シーンの続きであることに疑う余地はないだろう。

 日和対オロチのクライマックスシーン——そこでは燃え盛る炎に包まれながら、最期の悪足掻きとして、日和を道連れにしようと襲いかかるオロチ。
 恐怖で動けないのか、或いは、武士の娘として全てを覚悟したのか、眉間にグッと力を入れ、目を閉じ、死の瞬間を受け入れようとするかのような日和。
 次の瞬間、刀を抜いた傳ジローの手によって、文字通り一刀両断されたオロチの首は、白目を剥いたまま床に転がり落ちる。

 1057話でその場面の続きを描いていると思われる講談シーンでは、講談師の台詞によると、斬り捨てられたオロチの首は燃えながらも目を開いてこちらを睨み、「ドロロン」という、まるで妖怪が登場する時のような効果音を伴いながら、最期の呪いの言葉を吐いたという。

 人間の頭部は頚椎から切断されても、酸素が残っているうちは(と言っても脳は人体の中でも特に酸素の消費量が多い器官のため、そう長くはない時間)意識が残るという話を聞いたことがある。
 尾田先生がそれを根拠として『喋る生首』を“現実にある現象”として描いた可能性も100%ないとは言い切れないが、切断された首が独りでに動いて喋るという表現は、フィクションの中だから許されているものの、あまり現実味のある現象とは言えない。

 実際、今までのワンピースの世界の中では、死んでも独りでに動いて喋れるのはブルックとスリラーバークのゾンビだけであるが、それらの現象にはしっかりとヨミヨミやカゲカゲの悪魔の実の能力によるものであると理由付けされている。
 このことから、様々なファンタジーやおふざけを盛り込むことで知られる尾田先生とは言えども、“死”という現象とその表現に対しては、きちんと一線を引いていると考えるのが筋であろう。

 また、刀の腕に覚えのある赤鞘九人男が一人の傳ジローが、最大の仇であるオロチに対して、最上の仕打ちである“瞬殺”以外の斃し方によって、恨み節を吐かせる隙を最期に与えるとも考えにくい。

 これらの理由から、1057話で描かれた『喋る生首』は、オロチの醜い執念深さを強調し、それを成敗した日和や傳ジローの勇姿をよりセンセーショナルに際立たせて聴衆に伝えるために、脚色されたものとして捉えるのが妥当ではないかと考える。

二つ目の根拠、『日和の表情の違い』

 1048話にてオロチの首が斬り落とされた後、最後までしっかりと姫君を守り抜き、念願だった君主の無念を晴らす復讐を成し遂げた傳ジローだが、その唇はなおも厳しく、キュッと一文字に結ばれていた。

 一方で、落ちた仇の首を脇目に、一瞬にして死と生が逆転がしたことで事態がまだよく呑み込めないのか、傳ジローの左腕に庇われながら直立不動のままの日和姫。
 死への覚悟という硬い殻が瞬間的に打ち砕かれ、それまで必死に抑え込んでいた恐怖が底から満ち出すかのように瞳孔の開いた眼には、ほんの僅かだが、安堵が滲み出そうとしているようにも見えなくはない。

 二人の間で交わされる言葉がなくても、20年もの間、下ろされることのなかった緞帳がついに下ろされるんだという空気の重々しさが、ひしひしと伝わってくるような場面である。
 そんな風にたった数コマでも緊張感たっぷりに描かれた名場面だが、1057話では一転、講談師の軽快な口調によってその続きが語られていく。

 それによると、日和は制止しようとする傳ジローの手を振り払って、家紋入りの扇をかざし、オロチに引導を突きつけたとされるが、その表情はどちらかといえば涼やかで感情が読み取りづらく、1048話で描かれたような様々な感情が入り混じった複雑な表情とは程遠い。

 もしかしたら日和は実際に、大ゴマで描かれた立ち姿のように、勇ましく扇をかざし、燃えるオロチの亡骸に向かって、何か決別の一言を言い捨てていたのかもしれないが、顔に浮かべている表情からは、1048話で描かれていたような張り詰めた緊張感や空気の重さを感じ取りにくく、実際の場面ではもっと繊細な心の機微があった筈なのに、あまりそれが感じられないのは、講談師が聴き手たちに日和の勇ましさをよりセンセーショナルに伝え、劇場を沸かせるために脚色している、という表現だからなのではないかと解釈している。
 実際「燃えてなんぼの〜」の段になると、聴衆の中からは「いよーっ!! 待ってました!!」という歓声が上がり、講談師も「さァさ皆様ご一緒に!!」とさらに煽り立て、聴衆たちの盛り上がりは最高潮に達している。

 なお、扇をかざす日和の勇ましい立ち姿が描かれた大ゴマの左下に、日和の泣き顔がアップで描かれているが、これは脚色されたものではなく、日和の真実の姿を最後のコマにきちんと描いたのではないかと推測している。

◆国民が知らない『ルフィVSカイドウ』の真相

 「燃えてなんぼの黒炭に候」という文言は、確かに民衆から、先代たちの行なった歴史的な罪を正しく認識する機会を奪う危険性を孕んでいる。
 しかし前の項では、もしかしたら1057話で講談師が語っている内容は脚色された『作り話』で、尾田先生は『何らかの理由』で、“事実”を有りのままの情景ではなく、真偽入り混じりの誇張された“物語”として民衆に伝える、という図式を作りたかったのかも知れない、という可能性について話してきた。

 少し話が変わるが、ワノ国の国民に知らされていない真実はじつは他にもあって、それはカイドウ討伐に関する真相である。

 忌むべき暴君カイドウを倒したルフィの存在を国民に知らせないことは、他でもないルフィ自身がそれを望んだことなのだが、その理由として考えられるのは、ルフィ自身が過去の経験よって『ヒーローとして祭られることに窮屈さを感じる』から、あるいは自分の活躍を前面に出してしまうのではなく、今後国を立て直すにあたって『ワノ国のヒーローはモモの助や赤鞘であると国民に印象付けるべき』だと考えたからかも知れない。
 我々読者はルフィという人物の性質をよく知っているので、ルフィがモモの助に「おれのことをワノ国に言うなよ」と指示したこと自体には何も違和感がない。
 いずれにしてもワノ国の国民は、カイドウを倒したのは“ジョイボーイ”という見たこともない戦士だと思っており、祭りで音頭を取るルフィを“宴会隊長の兄ちゃん”だと思っている。

『魚人島編ホーディ戦』と『ワノ国編カイドウ戦』の類似点/相違点

 突然だが、ここで魚人島編ホーディ戦のことを引き合いに出して、ワノ国編カイドウ戦との対比について話してみたい。

 落下しようとしている【方舟ノア】と【鬼ヶ島】によって、人々の命運が左右されようとしているという図式が似ていることから、一時期一部の考察系YouTuberを中心に、ワノ国編ボス戦の最後は魚人島編のボス戦と同じように、『ルフィVSカイドウの決着の瞬間を人々が目の当たりにし、ギア5状態に達するであろうルフィの姿をワノ国の国民達が英雄として崇める展開』になるのではないかと予想されていた。

 結果として物語は真逆の展開を迎えたわけだが、もし、読者が落下する【方舟ノア】と【鬼ヶ島】を重ねて展開予想すること自体、尾田先生がそうなるように仕向けて描いていたとしたら、そこまで計算した上で、決戦の(ルフィVSカイドウの決着がつく)瞬間だけを、魚人島編と真逆の展開にした——つまり、魚人島編ホーディ戦のように、民衆が全員見守る中で決着をつけさせたのではなく、火祭りのために大量の国民が花の都に集まっているにもかかわらず、誰一人今まさに自分たちの頭上でカイドウとルフィの戦いが起きていることに気付いていない(誰も決着の瞬間を見ていない)という風に描いていたとしたら、そこには先生からの強いメッセージが込められているとは考えられないだろうか?

 余談だが、ホーディ戦では民衆が海底に落ちようとする大きな【方舟】の行方を案じ、それ見上げながら戦いの決着を目の当たりにしたのに対して、カイドウ戦では、民衆が空に昇る小さな【空船】を見上げているにもかかわらず、誰一人として戦いがあったことすら知らないという図式がまた、対比が利いていて面白い。

 魚人島編の決戦では、人間を憎しむホーディ側の思想と、人間を信じるオトヒメ側の思想が対立する中、オトヒメが信じる人間の善良性を持ち、自分たち(魚人族)のために戦うルフィの姿を目の当たりにすることで、魚人族たち自らが人間族に対する精神的な壁を取り払い、平和に向かって歩き出すきっかけとなったので、全ての国民が見守るオープンな状態で決着をつけさせることに大きな意味があった。
 一方でワノ国編の決戦では、あえてその瞬間を国民に見せなかったわけだが、そこにはどのような意図があるのだろうか。
 前項で述べた『講談師によって脚色された事実』と並べて考えてみると、何か見えてこないだろうか?

 1057話では、オロチ討伐の場面を有りのままに伝えるのではなく、『講談用に脚色されたストーリーをドラマチックな語り口によって伝えられている』
 カイドウ討伐については、国民はその瞬間を目の当たりにすることなく、ルフィの存在については伏せられたまま、『モモの助の口から語られた言葉のみによって伝えられている』

◆事実は常に全ての者に等しく、完全な状態で伝えられるものではない

 突然だが、私たちが読んでいる【ONE PIECE】とは、どういう漫画だろうか?
 言うまでもなくそのタイトルの通り、主人公たちが“ワンピース”という宝を探し求めて冒険する漫画であり、ルフィが海で一番自由な“海賊王”を目指す漫画である。
 それと同じくらい重要な主題の一つに『空白の歴史を解き明かすこと』が挙げられるのではないだろうか。
 物語が最終章に突入した今、世界政府が800年間ひた隠しにし続けてきた空白の歴史は、今後間違いなく少しずつ紐解かれていくことであろう。

 ここで、前項までで考えてきたことを、今一度おさらいしたい。

 最初の項では、日和と傳ジローによるオロチ成敗の場面を、『講談』というメディアを通じて、多少真偽の入り混じった『作り話』として伝えているのではないか?ということ。
 そして、歴史の真実を民衆に見えづらくさせ、さらなる迫害を生む危険性を孕んでいるが、聴衆を沸かせる為の決め台詞(「燃えてなんぼの〜」)を敢えて用いることで、『真実とは他者の“思惑”によって、いとも容易く書き換えられ得るものである』ということを表現しようとした可能性について考えた。

 その次の項では、ワノ国のカイドウ戦において、魚人島のホーディ戦を彷彿させるような類似した描写が多々ありながら、肝心の『誰が』『誰を』倒したのかの部分を、ホーディ戦では民衆に対してオープンにしているのに対して、カイドウ戦においては、尾田先生があえて民衆に事実を目撃させない描写を選んで描いている可能性があると考えた。
 また、ルフィが自らの手柄を伏せて、それ以外の部分をモモの助の言葉を通じて民衆に伝えさせたという描写は、事実が第三者によって伝聞されることによって、少しずつ曲解されるものであるということを示唆している可能性があるとも考えた。

 以上の三つの可能性に基づいて考えた結果、尾田先生はもしかしたら、『現代に残された記録としての歴史というものは、伝達されていくうちに、様々な人の思惑によって少しずつ形を変えられ、やがて一番最初の真相から最も遠ざかった形で伝わっていくものである』というようなことを表現しようとしていたのではないか、という結論に至った。

 ワンピースの世界に限らず、現実の世界でもそうなのだが、物事の真相というのは常に全ての人間に、等しく完璧な状態で伝えられるものではない。
 時には誰かが脚色した物語としてそれを知ることがあれば、時の権力者の口から語られる言葉によって知ることもあるだろう。
 言葉を伝える時、多かれ少なかれそこには話し手の“思惑”が上乗せされるもので、それが何十年も何百年もの間に繰り返し伝えられていくと、物事の“真相”はそれが発生した当初の状態とは、随分様相の異なるものになっていることが多々ある。
 歴史上で起きた事実は未来永劫不動不変のもののはずなのに、歴史の教科書が書き換えられたり、立場によって主張が変わったりするのは、そういうカラクリがあるからではないだろうか?
 歴史が書き換えられるによって何かを得る者がいれば、何かを失って苦しむ者もいる。
 それでも全ての人類に各々の“思惑”がある限り、歴史や真実が完全な状態で伝えられることは、きっとないだろう。

 尾田先生の描くストーリーが私たちの心を打ってやまないのは、そこにリアリティもファンタジーも、全部ごちゃ混ぜで込められているからだと私は思っている。それも我々読者が思わずハッとしてしまうような絶妙なバランスを、常に保ちながら——

◆ワノ国が隠した『黒炭家迫害の真実』/世界政府が隠した『空白の100年』

 1057話で描かれている決め台詞(「燃えてなんぼの〜」)は、可能性として「煮えてなんぼのおでんに候」と対比させることで、オチとしての美しさを重視したことが一番大きいだろう。
 ここから先は多分に私自身の主観に基づく考察となるが、今までの細やかなストーリーテリングから見て、「燃えてなんぼの黒炭に候」という文言が持つ、新たな迫害を生む危険性を先生が見落としている可能性は非常に考えにくい。

 根拠としては前述の通り、『空白の100年』という“歴史における謎の部分”を物語の根幹として持ち出してきた時点で、それが主人公たちの生きる現代に伝わるまでどのような変容を遂げてきたのか、その過程を描くことは必要不可欠であると言えること。
 そして、そのように歴史が変容しながら伝わっていく中で、その変容自体が意図的なものであるにせよ、不可逆的なものであるにせよ、そこには必ず数あまたの人間の“思惑”が潜んでおり、漫画でそれを表現しようとしている尾田先生ならば、きっと誰よりもその不条理さを理解されている筈だと考えているからである。

 もし、そこまで理解した上で、それでも敢えて「燃えてなんぼの黒炭に候」という綱渡りに踏み切ったのならば、それはもしかすると、時に己が思惑の為に真実を捻じ曲げてしまう人間の不条理さを逆手に取り、「煮えてなんぼのおでんに候」と掛けることで講談のオチネタにして笑い飛ばしてくれ、と仰っているようには考えられないだろうか。

 これまた余談ではあるが、ルフィ達が現在目指しているLaugh Taleという島の名前は、周知されている通り“笑い話”という意味であり、今でこそ『空白の100年』と仰々しく伝えられているが、その始まりはもしかすると、ほんのささやかな誰かの“思惑”だったのかも知れない。

 ラフテルに到達し、隠された歴史の正体を示す“一番最初”の真相を目の当たりにしたロジャーは、もしかしたらそのあまりのくだらなさに、涙を流すほど大笑いしたのかも知れないし、我々が本編でその答え合わせをする日は、もうすぐそこまでやって来ている。

◆お玉は黒炭の末裔として描かれる予定だった?

 ここで、以前より巷に出回っていた『お玉が黒炭の血筋なのではないか』という噂を参考に、尾田先生がもしかしたら本当はワノ国における迫害の歴史に終止符を打つ描写を用意していたのではないか、という可能性について考えてみたいと思う。

 その噂の根拠は、第1051話“ワノ国将軍 光月モモの助”(週刊少年ジャンプ2022年27号掲載)にて、お玉の回想シーンで描かれていた両親の墓標に刻まれている名前が『黒炭●●●』に見えるということだった。
 実際に電子版のジャンプで該当するコマを拡大してみると、そう言われれば確かにそう見えなくもない……というレベルのもので、ワノ国編が終幕を迎えた今なおその真相については明かされず、この先も本編で描かれる可能性が極めて低いとなると、我々に残されているのは想像することしかないだろう。

 私自身は、この『お玉=黒炭』の考察が出回りはじめた当初から、かなりこの説を推している一人であるが、なぜならば、魚人島編の辺りからONE PIECEという作品の中でより明確に描かれるようになった『憎しみを後世に引き継がない』ということを物語の大きなテーマの一つとして考えた時に、もしお玉が本当に黒炭の血筋だったらば、後に生き残った光月スキヤキであることが明らかになる天狗山飛徹が彼女を匿って養うこと以上に、そのテーマを回収するのに相応しいエピソードはないと思うからだ。

 思えばお玉と天狗山飛徹は、ルフィがワノ国に入国してから一番最初に出会った味方サイドの登場人物だったが、ワノ国編のかなり終盤までなかなか彼らの素性が明かされなかった。
 天狗山飛徹=光月スキヤキであることは物語の進行上、必ず明かさざるを得ないことであったが、お玉の出自については、ついに詳らかにされることはなかった。

 もしお玉が黒炭の末裔であったらば、光月の血筋を持つスキヤキがそれを知らずに彼女を守ったことによって、黒炭家が迫害を受けてきた歴史にも一筋の光が見えてくるが、個人的にはそれを描いてしまうと、ワノ国編の中で物語が綺麗にまとまり過ぎてしまうのではないか、という気もする。
 これから物語を結末に導くにあたって、尾田先生がこれまで以上ににスピード感を上げてくることは必至で、ワノ国編終盤の勢いを殺さないまま最終章に繋げていくために、あえて読者の中に疑問を残したまま、次に進むことを選ばれたのではないかと推測している。

◆『忍者海賊ミンク侍同盟』には続きがある——

 最後に、これはお玉が黒炭の血筋であることを前提に、もしそうだったら良いなという願いを込めてのお話。

 1056話(“CROSS GUILD”)では、同盟だった登場人物たちの未来を暗示する描写のオンパレードであったことは記憶に新しい。

 キャロットは昼夜の両王により、次期モコモ公国の王に任命され、その身がズニーシャと共にある限り、ルフィたちとの再会は約束されたものと言えよう。
 お玉は“妖艶な”くノ一になるべく、しのぶの弟子となり、やがて忍術を使えるようになったら、ルフィの仲間になることを誓い合った。
 そして1057話では、(ヤマトの仲間問題に関してはまだ納得できない読者も多いことと思うが……)モモの助錦えもんも、そしてヤマト“仲間”であると、ルフィ自らの言葉によって宣言された。

・『正統なる光月家の次期将軍』モモの助
・『海賊カイドウの血を引く息子』ヤマト
・『ミンク族を率いる新王』キャロット


 ここにあと、立派なくノ一となった『黒炭家の末裔』であるお玉が加われば、“新時代の担い手たち”が『ロジャーに次ぐ海賊王』ルフィの元に集まることとなり、新たなる【忍者海賊ミンク侍同盟】が結成されることになるだろう。

 次世代の“ミンク族”、“光月家”の継承者、“黒炭家”の末裔、“カイドウ”の血筋、かつてはワノ国の地で争い合った者たちの次世代が、先代の確執を乗り越えて、海で一番自由な“海賊王”の元に集結する。
 そのことを今から想像しただけでも、込み上げる胸の熱さを抑えきれない——


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以上で私の考察は終わりです。

最後までご清覧いただき
有難うございました。

ご意見・ご感想がございましたら
是非宜しくお願い致します🙇🏻

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