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題名のない、或る者たちの回想録 〈一〉

 《かつてわたしたちが其処にいた証として——》





 古くから名は体を表すと言われているが、物語の本質を表すのが題名というものならば、わたしにはまだこの物語に名前を付けることは出来ない。

 ある者は言う。
 死は人の完成形であると。

 またある者は言う。
 芸術作品の価値は、その作者の没後に定まるものであると。

 この物語がわたしたちの人生にとって何をもたらすものであったのか——もしいつかそれを知る時が訪れたら、この物語にふさわしい題名もまた自ずと浮かんでくるのだろうか。



 これはまだ題名のない、或る者たちの回想録。







  ある年の十一月某日
  明け方

 カーテンの隙間から漏れる薄い光が、隣にいるユウの寝顔を青白くぼんやりと浮かび上がらせている。それを裸眼のままでしばらく眺めた後、ぐしゃぐしゃになった前髪を指先で軽く整えてあげてから、流れるような手つきで瞼が閉じられた眼窩の縁をゆっくりとなぞり、それから細く通った鼻筋、少し尖った上唇の先、小さくすっきりした顎へと、それぞれのパーツの所在を一つ一つ確認するように指先を滑らせていき、最後に片頬を包むように、そっと手のひらを添える。寝ている間に布団の中で温もったわたしの手のひらに、ユウの頬の冷たさがひんやりと伝わってくる。

 部屋の中で聞こえるのは、遠くの方で低く唸っているような家電の稼働音とユウの規則的な寝息ばかりで、そのことがこの瞬間、周辺の世界で目を覚ましている者はわたしのたった一人であることを知らせてくれる。そう思ったとたんに眼窩の奥で生温かいものが沸き上がるのを感じ、するとそれが何であるのかを頭で理解する間もなく眼球がその熱さで満たされ、それから大粒の涙が眼の縁から止めどなく溢れ出し、ぽたぽたと枕に零れ落ちた。
 わたしは腹の底から込み上げてくる、幼い子供のように声を上げて泣きじゃくりたい気持ちをぐっと喉の奥に押し戻し、今この空間に充満している静謐さを掻き消さぬよう、嗚咽とともに小さく囁いた——

 「おかえり……」





 ユウがこれからこの世を去るということを、わたしは必死に悟ろうとしていた。

 それはもう何をしようとも覆されることの決して叶わない確実に定められた真理であり、あとは自分の心の状態を死に物狂いで整理して、極めて近い将来に必ずやって来るであろうその日を待ち受けること以外になす術がないと思っていた。
 コロナ禍の最中にユウが七ヶ月入院していた間、毎朝目が覚めると今日がその日かも知れないと自分に繰り返し言い聞かせては憂鬱になった。
 それゆえに、ユウがまだ生きて、こうして自分の隣で呼吸をしているということは、まるで脳裏を柔らかく支配している淡い眠気がその事実をぼんやりと霞ませているかのようで、頭脳では理解をしているものの、手で掴もうとすると跡形もなく消え去る泡沫のように、その実感を噛み締めようとすればするほど、霧散していくような感覚にどうしてもなってしまう。今見えているこの情景が霧に映された幻であると説明されればその方が納得してすんなりと受け入れられるのではないか——などと思い浮かべているうちに、頭の働きがだんだん鈍くなってきて、ぐにゃぐにゃとまとまらなくなっていく思考と、意識が揺らめいてフェードアウトしていくのを薄く感じながら、涙が乾いた眼に重たくなってきた瞼を下ろして、わたしは再び眠りに落ちた。

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