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我々はいつから容姿重視になったのか?(後編)――葉桜は本当に美しいのか?

 私の記憶違いかもしれませんが、中学か高校時代の国語の授業だったかと思います。
 昔の偉い人が歌った「葉桜は美しい」みたいな趣旨の和歌に対して、またもや昔の別の偉い人が「葉桜が美しいわけないだろ。桜は満開が美しいに決まっている。小賢しい歌だ」「一見、美しくないものに、美しさを見いだすオレ、カッケーってか!?」と批判した、という内容の評論を教科書で読んだ記憶があります。
 その「偉い人」って、藤原定家だったか、本居宣長だったか、小林秀雄だったか……。いろいろググったのですが、どうしても出てきません。やはり、記憶違いなのか……。

 で、なぜ冒頭でこんな個人的なエピソードを紹介したかというと、先週紹介した「我々はいつから容姿重視になったのか?(前編)」の後編を、今回お届けするにあたって思うところがあるからです。
 これは、北畑淳也『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』(フォレスト出版)の中から、井上章一『美人論』(朝日文芸文庫)を参照した「ルッキズム」に関連した記事でした。


 前編では、日本のルッキズムの原点が明治時代の自由恋愛や結婚の自由のはじまりにあると指摘しました。
 後編では、さらにルッキズムを加速させた要因、そして社会との関係について論じた箇所を紹介します。
 以下、北畑淳也『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』(フォレスト出版)からの抜粋です。

 実は明治時代は、身分制度の解体に限らず、他にも男たちの面喰い化を加速させる要因がありました。
 その1つが西欧文化の流入です。一例として、社交場でのパーティー文化を井上は挙げています。

夫婦同伴の社交生活が、日本の上流社会にもひろがりだす。こうなると、妻たちも、もうかつての奥方ではありえない。(中略)必然的に、妻の容姿も、他人の目にさらされる。いやでも、その美醜がわかってしまうようになるのである。

「欧米列強と対等にわたりあう」ためには彼らの土俵に上がる必要がありました。その1つが社交場でのパーティー文化なのですが、そこは1人で行くものではなく、夫婦で行くものでした。そのとき、誰を一緒に連れて行くのが自らを「高く」見せられるかと考えたときに、男たちの脳裏に浮かんだのは美人なのです。
 パーティーの話はあくまで一例です。ここでのポイントは西欧文化の流入で妻の役割が家庭のなかで切り盛りする「奥様」というだけでは不十分になったことです。
 この「面喰い化」は特に有力者に顕著に見られました。代表例が伊藤博文ですが、彼を筆頭に明治期の有力な政治家や役人の多くが芸者と結婚をしたのです。理由は、もちろん容姿がすぐれていることに加え、社交術も身につけており、男たちの威厳を最も満たしうる存在だったからです。

美人について考えると見えてくるもの
 しかし、明治時代に「美人」とされた要素も昭和になると変化が見られます。
 たとえば、昭和の前半では、挙国一致の政治を目指した日本政府は「翼賛美人」という概念を打ち出しました。「翼賛美人」は、〈目鼻だちについての指摘は、ぜんぜんな〉く〈体つきが、問題になって〉いたのです。
 そんなの「美人」じゃねえよと突っ込みたくなるところですが、おそらく当時は細身のアイドルのような美人より多産型で多少ふくよかなくらいの女性が望まれたということがあるのでしょう。ですがそんな国家につくられた「美人」の定義も戦争が終わると跡形もなく消え、またしても容姿端麗な美人がもてはやされる時代が到来するのです。

 さて、結局これらの例から井上は何を述べたかったのでしょうか。大きく3つあります。
 1つ目は社会をより深く理解するにはタブー視されているものにこそ切り込んでいくことが大切だという点です。つまり、建前だけ議論していても議論は深まらないということです。
 事実、彼は〈面喰いを抑圧する倫理を、問題にしているのだ〉と述べたように、面喰いを戒める倫理に大きな関心を持っていました。しかし、著者の願いとは裏腹に、相変わらず〈現代社会では、容姿の美醜をことあげしにくくなって〉います。年齢を問わず、男が飲み会に集まったら議論することは、「〇〇ちゃんはかわいい」「△△君と□□ちゃんはチョメチョメした」などの話題ばかりですが、それもあくまで「インフォーマル」な場に限定されています。
 2つ目は人間の価値判断が社会に規定されることです。それはどういうことかといえば、「種の存続」ということだけを単純に考えるならば美人である必要はないのです。血筋が重んじられた時代があったように、「種の存続」に対して「美人」が注目されるのは血筋ほど合理的ではありません。ということは今日において多くの人が面喰い化するのは、美人と共にあることが多くの人にとって「合理的」だからに他なりません。
 最後の3つ目は「言葉」とは何かに対する回答です。この本の端から端まで読んでも、「美人」の定義は不明です。私もこの言葉を再三使いましたが、一行で「美人とはこういうものである」とは述べませんでした。
 なぜなら、井上は「美人」を緻密な議論で定義するのではなく、あくまで各々の社会において「美人」の概念を提示するものだったからです。しかし、これは井上に定義する力が欠けているということを意味しません。井上が実証しているのは、そもそも「言葉」というもの自体は最初から空っぽであり、「意味」を与えるのはその時代時代で、そこに参加している人たちなのだということです。ですから、歴史の変遷を通してそれは徐々に変化していくのです。
「美人」というのは現代における合理性の尺度です。仮に今後「美人」が優遇されなくなるときに、そこには歴史の転換点があるかもしれません。
(終)

 いかがだったでしょうか?
「社会をより深く理解するにはタブー視されているものにこそ切り込んでいくことが大切」ということなので、私もルッキズムについて、少し考えてみました。
「ルッキズム批判」は、超乱暴にいえば「人を見た目で判断するな」ということだと思います。
 しかし、こうした主張をする女性が化粧をしていたり、キレイな自撮り画像なんかをUPしたり、ルッキズムの恩恵を多分に受けて成功していたりすると、そこに矛盾を感じて攻撃する人もいます。
 私は、「美しいものは良い」「強いはカッコいい」は至極まっとうな感性だと思います。「若いは素晴らしい」もそう。年老いたゲーテも、10代の少女に恋をしましたし。少なくとも、「醜いほど素晴らしい」と感じる倒錯した感性よりもよっぽど健全です。ニーチェの貴族道徳・奴隷道徳に照らし合わせてもきっとそう。そういう意味で、「人を見た目で判断する」のは間違っているとは思えません。
 そして、葉桜よりも満開の桜が美しいと感じるのが普通だと思っています。
 一方、「美しくありたい」「強くありたい」「いつまでも若くありたい」、さらに「美しいと思われたい」と願うのも、健全だと思います。ルッキズム批判をしている人だって、きっとそう願って生きているはずです。

 ……だからこそ、ルッキズム批判は大いなる矛盾をはらむことになるのか――と答えが出ずに悶々としていたのですが、小田嶋隆さんの至極まっとうなツイートを読んで、膝を打ちました。

  どうやら、バカが理屈っぽく考えすぎていたようです。
「美を欲したり、ルッキズムの恩恵を受けた人が、ルッキズム批判すること」は決して矛盾していない――という考えに至ったのですが、みなさんは、どのようにお感じになったでしょうか?

(編集部 石黒)

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