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「多様性を訴える」ことで相手を排除する矛盾を、いかに考えるべきか

同性婚を認めたら「社会が変わってしまう」の岸田首相、性的少数者について「隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」という首相秘書官……。

世論はこれらの差別的発言に批判的です。前者もかなりアレですが、後者の発言については、思っているだけならまだしも、オフレコの場とはいえ声に出してしまうのは言語道断。こんな差別意識をクローズドな酒の席ように記者の前で言えるのは、権力の中枢にいる者の驕りもあるのではないでしょうか。

さて、この話題で考えてみたいのは、「多様性の尊重はいかに可能か?」という問題です。
多様性の大切さは説明するまでもなく、誰もが知っています。しかし、多様性を訴え、弱者やマイノリティ救済という立派な活動をしている人でも、ちょっと自分の信条と異なる意見を言われようなら、烈火の如く怒り、SNSで相手を罵倒する場面をよく見かけます。この惨状に、「多様性って何なんだ!?」と疑問を抱いてしまう人もいるでしょう。
そこで、こうしたモヤモヤ解消のヒントになりそうな箇所を、北畑淳也『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』の中から、シャンタル・ムフ『政治的なものについて:ラディカル・デモクラシー』を紹介した原稿を本記事用に一部抜粋・改編してお届けします。


「多様性の尊重は対立を乗り越えたところにある」という誤解

 まず、真に「多様性」のある状態をムフはどう定義したのか。
 それを理解する前段階として、一般的にイメージされる「多様性」への誤解を解く必要があります。その誤解とは、「多様性」が意見の対立を乗り越えたところにあるという考えです。
 この誤解は非常に根強く人々に浸透しています。
 対立はいずれ解消されるという根拠なきオプティミズムが「多様性」の議論を支配しているのです。
 しかし、このような考えはありえないとムフは考えます。
 ムフの意図は、人々の行動原理となる「秩序」は何かしら排除の論理を含んでいることです。
「秩序」というと仰々しいですが、人々の関係性を保証するもの(秩序)がその連帯性を強め、外に対して「排除」の論理を発揮することを意味します。
 この着想は、どれほど議論をしても、どれほど争いを重ねても、現実でのヘゲモニー闘争(覇権争い)は終わりを見せないという単純な理由にあります。
 歴史では幾度となく「人類普遍の願い」という形で多くの秩序が生まれてきました。しかし、そのどれもが現実化するときに必ず誰かを排除する結果になるのです。

多様性は対立する存在を受け入れることで尊重される

 では、あらゆる「秩序」が排除の論理を含んでいることがわかったとして、どうすれば「多様性」の尊重は可能となるのでしょうか。
 ムフの結論はこうです。
 まず「対抗者」の考えを積極的に傾聴するよう促します。ここまでは一般的な多様性論と同じです。しかし、ムフの場合はその上で、〈敵対性は抹消しえず、むしろ、「昇華」されなければならない〉と考えるのです。つまり、「全員が同じ意見に向かってたどり着けるはずだ」という幻想を捨てて、〈社会の分裂の認識と対立の正当性〉を持ち、他者と向かい合うべきだということです。
 お気づきのとおり、これは近代デモクラシーが重視する〈合意ないしは宥和の観点から捉えようとすること〉とは正反対の意見です。しかし、彼女によればこの考え方こそが民主主義の現実化において重要なのです。
 要するに、ムフにとっての「多様性のある社会」とは、複数意見の対立状態が恒常的にあり、それらがぶつかり合っている状態なのです。
 もちろん、これは対抗者の「すべて」を受け入れるという意味ではありません。著書では次のように断りが入っています。

 基礎となる制度を疑問に付す者を正当な対抗者とみなすことはできない。

シャンタル・ムフ『政治的なものについて:ラディカル・デモクラシー』明石書店

 ムフの多元主義では、その討論の前提を破壊するものを「多様性」の1つとして受け入れることには断固として拒絶しなければならないということです。
 原理としては、リングに上がってルールを守っている限りは、殴り合いという行為も「ボクシング」として認められるのと同じですが、リングを降りても殴り合えばお縄になるということです。

「多様性」の尊重を謳う自分自身が排他的でないか

 ムフの議論は我々を次の点に気づかせてくれます。
 それは個人の「多様性」を安易に主張する者こそが、「多様性」を排除しうる危険因子だという点です。
 背景には、私も含めた多くの人が「今は対立があるかもしれないけれど、それは一時的なものであり、いずれ1つになることができる」という考え方から抜け出せないことがあるのでしょう。そして、この考えを持つことが「良いことだ」と無意識に考えているからですが、そのせいで、歴史は幾度となく悲劇を生み出しました。
 日本の例でいえば、外国の脅威に対して「日本国民」として1つになることを謳い、それが達成されているかのように喧伝しながら、裏では次々にそういった「愛国カルト」に批判的な人を処刑していました。
 そういう悲劇を起こさないためにも、彼女は「社会」をヘゲモニーのぶつかり合いを本性とするものとして捉えるようにしたのです。

 あらゆるたぐいの社会秩序の本性がヘゲモニー的であること、さらに、あらゆる社会が、偶有性という条件のもとで秩序を打ち立てようとする実践の諸系列の産物であるという事実を承認することが要求されるのである。

前掲書

 コミュニティをより多くの人にとって良いものとするには、複数のヘゲモニーによる均衡状態をつくることが、ベストではないにせよベターだということです。 
 こういうと小難しいですが、身近な例もあります。
 それはビジネスマンの服装です。これも長いヘゲモニー闘争の歴史だと私は考えています。一昔前は気温が40度を超えようが、ブラックスーツにネクタイをつけていなければ社会不適合者とされる風潮がありました。しかし21世紀に入りはじめてからでしょうか、IT社長などが異常にカジュアルな服装でオフィシャルな場に出るという、ブラックスーツヘゲモニーに挑戦して以降、変化が生じます。
 今やオフィス勤務においてノーネクタイはもちろん、オフィスカジュアル、ジーンズOKなど、会社ごとに差はあるものの「多様性」が認められつつあります。
 現時点では、この均衡状態がベストではないにせよ、ベターだとされているのでしょう。ただし、このベターもまた時代の移り変わりで変化を要求されることはあるはずです。
 別の例でも考えてみましょう。
 我が国でなされている緊縮財政理論と積極財政理論(MMT)が、ヘゲモニー争いを激化させていることが挙げられます。両理論は片方が政府債務をなるべく少なくするのが望ましいとし、もう片方は政府債務はむしろ足りないくらいであるとし、天動説と地動説くらいの相違があります。
 一般的な文脈で多様性を尊重しようとすれば、双方の言い分を合わせることや第三の選択肢を生み出そうとする必要があります。
 しかし、双方の意見が折り合う点はまったくありえません。なぜなら、双方の理論が一致しうる点は1つとしてないからです。実際、我が国の歴史でもここ20年ほどは緊縮財政理論が称揚されてきました。しかし、最近はその流れに変化が見られ、積極財政理論の必要性が政治家をはじめ各方面から強く挙がるようになってきました。
 この例でお伝えしたいのは、安易に「お互いはわかり合える」と述べるような優等生的発言は、むしろこれまでの歴史や現実に目をつぶった暴論だということです。多様性を重視するからこそ、時には議論による対立を避けてはならないのです。


対立したヘゲモニーのとらえ方について、以下で以前お伝えした、戦争と平和の均衡状態に似ていますね。コインの表か裏かという二元論ではなく、その側面にあたる中間状態を維持しようという考えに近いと、個人的に受け取りました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(いし ぐ ろ)


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