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劇場版レヴュースタァライトを6回ほど見たので ①大場ななの本当の本心について。

ほぼ初見で映画見た後のこと。

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……ドハマリしてるやん。

さて、他では語られていないことを中心にまとめて書いておこうと思う。

前提:wi(l)d-screen baroqueについて

劇場版のあとアニメに遡って見たとき、アニメ版は
・「学園の地下」という場所に限られた、
・トップスタァを決めるための「オーディション」が目的
という大きな違いがあったんだなと、逆説的だが気づいた。

wi(l)d-screen baroqueの元々の意味については至るところで語られてるから置いておくとして。自分の考えだが、「wild 野生の=全てをさらけ出す」ものであり、「wid(e)=至る所」で発生するレヴューであるという理解がしっくりきた。
つまり「学園の地下に呼ばれることで起こる、トップスタァを決めるためのオーディション」ではなく、これは「私たちはもう舞台の上」(誤解を恐れずに言うと、舞台少女としての「常在戦場」)という覚悟を問うためのもの。 言わば、学園という保護された場所から、社会という孤独な戦いに向かうための(大場ななからの)通過儀礼としてあるものではないかと思った。 親鳥が小鳥に自然の厳しさを教える、あれに近いとも言えるか。

「オーディション」は予めキリンからメールを貰い自分が呼ばれるという受け身の、学園の地下という決まった場所でしか開催されない、ある意味予定された舞台である。またトップスタァを決めるという目的がはっきりしており、星を飛ばされた時点で分かりやすく決着が付く。
劇場版の「ワイルドスクリーーンバロック」はこの点から見ても全くルールが異なる。 アニメを先に知っていた視聴者から見ればさぞかし驚いたことであろう。

「ロンドロンドロンド」についてはまだ見ていないのだが。
大場ななの台詞に、「再演を限りなく続けた果てに「舞台少女の死」を見た」というニュアンスのものがある。つまり、彼女は、「再演」を続けるレヴュー上の実像として、8人が徐々に情熱を失い「舞台少女としての死を迎えた」と想像できる。それ故に、皆の今の心構えのままではまずいという危機感を誰よりも持っている。

香子について

香子については少しだけ事情が違うので、彼女を例として語ろう。

実は、香子については本来、常に天堂真矢と同じぐらいの気概ではあると思っている。 彼女は常に双葉に追われる立場であり、それ故に天堂真矢に一目置かれていたことはアニメでも描かれた。
また彼女は家元として常に他人の目に晒されるという、皆の進路に比べて最も厳しい環境に進み、そこで世界一になるという覚悟も進路相談で語っている。

ただ、香子は9人の誰よりもオーディションに固執しているのが問題であった。 「オーディション」は、そこで勝ち上がればトップスタァになれるという保護された分かりやすい舞台であるが、非常に特殊なケースなだけに印象強く皆の心に残ってしまっていた。 クロと大場ななと天堂真矢を除いた他についても、少なからずオーディションについては思うことがある様子が描かれている。

今後オーディションに呼ばれるかもしれないと心残りに思ったまま生きていく、ということは、現実で大成しなくても(今後開催されない?)オーディションに呼ばれ、そこでトップスタァになれるかもしれないという「甘え」を残したままということである。

大場ななの裏の目的:オーディションはもう開かれないことを知らしめ、自分の保護を離れ飛び立たせること

香子と天堂真矢、クロ以外については、劇団のスタァに憧れ、会いに行くことにはしゃいでおり、双葉とまひるは多くの質問を用意していたことも描かれていた。 大仰に捉えると、今後自分が入団を希望しているのに、トップスタァを奪い合わなければならない対象に対して、最初から一歩引いた状態であると言えるだろうか。
(香子はみんなの様子に反感を示し、トップスタァになることを諦めたん!?と突きつけたことからも、立ち位置が違うことが示されている。)

皆殺しのレヴューは、「オーディションに非ず」としてその甘えを断ち切り、世間はそんな生易しいものではないということを伝えるための通過儀礼であったと言えるのではないか。

中盤の決起集会の裏方であるB組メインのシーンで、台詞に触発され、皆が気づいていくシーンが素晴らしく印象的である。

「囚われ変わらない者は、やがて朽ち果て死んでいく」
「だから、生まれ変われ。古い肉体を壊し、新しい血を吹き込んで」
「今いる場所を、明日には超えて」
「今こそ、塔を降りる時」
「たどり着いた頂に、背を向けて」
「私たちはもう、舞台の上」

一方で大場ななの、皆へのお母さん的存在としての立場も終わることになる。 

「おやつの時間はもうおしまい。飢えて乾き、新しい舞台を求めて。それが舞台少女。じゃあ、みんなは?」

皆殺しのレヴューでの厳しい姿勢ばかりが取り上げられがちではあるが、みんなの状態を俯瞰で見て、厳しくも現実を突きつけた大場ななは、やはり母親代わりの立場だったと言えるのではないだろうか。
決起集会で塔の支えをネジ止めしたあとの表情がそれを表している。華恋に向けて今まで作ったお菓子の話をするシーンは、とてもいじらしく思える。

大場ななの真の目的:純那への思いを断ち切ること、だったが。

大場ななの裏の目的については、決起集会のシーンで既に終わった。
残るのは自分の純那への執着の問題であった。

他の方の感想を見て気づいたのだが、「なんだか強いお酒を飲んだみたい」という台詞は、特に純那に向けて問いかけたものだと気づいた。 本来の純那であれば、何かしらの舞台を引用して台詞を返すことぐらいはしたかもしれない。でも普通に「私たち未成年よ」と返してしまった。
また、華恋と皆の前で演技しているシーンでも、華恋の台詞に舞台上ながら見とれてしまっていることも、大場ななにとってはマイナスポイントだったととれる描写がある。

狩りのレヴューでは、本当に純那に対して引導を渡そうと思っていた。
そんな気持ちでは学園を出れば通用しないから。何にもなれないまま緩やかに朽ちていく前に、自分が引導を渡さなければならないという責任感もあるだろう。 しかも自分の力で負かすより、自ら諦めて舞台を降りて欲しいと思っていた。完敗させるだけでは、また純那は「今は届かないけど」と思うだけかもしれない、とも考えたのだろう。

この気持ちも、上で述べたような大場ななの想いに立ってみると、厳しい態度は、自然界で親が子に突然示すような愛情の裏返しであると感じる。 
それほどまでに「大場なな」は「星見純那」に執着していた。
大場なな自身も前に進むためには、その思いを断ち切らなければならなかったのだろう。 そして、純那のような半端な気持ちでは、絶望に追い立てられれば立ち上がってこれないと想像していた。

しかし、純那はそんな予想を覆し、自分を圧倒してみせた。

「終わったのかもしれない、私の再演が、今」
皆を守るために再演を繰り返していた大場ななにとってみれば、純那が手を離れたことによって、ようやく本当の意味で解放されたと言えるだろう。

「燃えるような宝石のキラめき やっと 届いた」
この台詞が震えるほど熱い。
心の底で焦がれるほど求めていた。
大場ななも、純那が誰よりも努力をしていて、何にもへこたれない気持ちを持っていることぐらい、同じ生活をする中で気づいていたんだ。
求めてやまなかった星見純那の本当の姿を見せてくれた。

それは再演を繰り返していた時に、彼女が一番見たかったキラめきで、だからこそ「眩しい」のだろう。

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