「頭の良さ=勉強ができる」

深い意味はないけれど、念のため。

この記事は(以前の記事もだけど)主にボクの経験と知見のみから書いているものであって、悪意や誰かを批判したいという気持ちは全く込められていません。ゼロです。

ある日、僕の身近な人がこう言いました、

「頭が良いって勉強できることじゃないでしょ。

東大卒でも、こんな奴が東大卒なのか、って思ったことがある。」

こう述べた彼は東大卒でもなければ、世間でいう、いわゆる高学歴と言われる学歴もありません。

仰せの通り、必ずしも「頭の良さ=勉強ができること」だとは思いません。

が、相関性はあると思います。


ボクは中学校は公立に通い、高校は私立の高校(大学進学コース)、大学は医学部という経歴です。恥ずかしい話、中学時代は勉強はおろか、部活に励むこともなく、ちょっとした非行少年でした。成績も下から1/3あたりをうろうろする程度の成績でした。中学自体の偏差値は県内で真ん中より下くらいでした。この時はまだ、頭の良さとは、などと、全く考えていませんでした。ただ、思っていたのは、公立中学校の学級には、頭がいい人も、非行に走って警察に捕まるような少年も、ごっちゃまぜで一緒の教室にいた、ということ。高校受験を終え、自分の努力に応じた高校に入ると、ふと身の回りの世界が変わったことに気づきました。この高校は県内で上から6、7番手くらいの進学校でしたが、空気を読める人が増えたな、と思いました。もちろん例外はいますが、この集団はある一定以上の社会的常識と知識、人間関係を円滑に進めるための知恵を持った集団なのだと。漠然とですが、中学時代に比べて、人間にバラツキが少なくなったと感じました。中学生のときのように、先生に怒鳴られる人や、補導される人はいなくなりました。大学受験を終え、医学部に入ると、更にガラッと世界が変わりました。頭がいい人たちばかりの集団だと、強く感じました。どこにそれを感じたかですが、話の内容、勉強の教え方、いわばなにかの話術を使ってるかと思うくらい、話がおもしろいし頭の回転が速い。勉強はできるが頭がいいわけではないと自認しているボクは、うまい返しやおもしろい話を満足にできているとは思えません。なかなかリアルでこんなことは言えませんが、自分が洗練されていく感じです。

「周りが年齢を重ねて、単に話の内容が変わっただけじゃないの?」

そういう声が聞こえてきそうです。

比較の為といっては語弊がありますが、大学に入ってから、小学生の同級生や、中学生の同級生、高校の同級生とお酒の席で話をする機会がありましたが、彼らのほどの知性を感じることは少なく、やはりおもしろいなと感じるのは、学びに勤しむ同級生達でした。

偏差値が高い世界に入ると、話の質や、会話の内容のレベルがあがっていくのを身をもって体感した、こう思いました。

前述の、「頭がいい=勉強できるということではない」と仰っていた方は、東大生のいわゆる例外な人あたってしまったのかもしれませんし、その方自体の理解力が東大生の行動・言動のレベルに及ばなかっただけなのかもしれません。(どちらを批判しているつもりはありませんのであしからず。。)

頭がいいことと、勉強できることはある程度の相関性がある、ボクはそう思います。

そしてそういう人達と考え、交わることで、更に人間を磨ける。

自分より強い人と試合したり、戦って、より自分が高みを目指せるのと同じだと思います。

だからこそ、この記事を見た画面の前の受験生のキミにも、高いところを目指してほしい。自分のやりたいことがあるなら、やりたいことの最高峰の場所を目指してほしい。

妥協せずに、学んで、学んで、学んで、高みを目指す。

それは更なる勉強の場を自分にもたらし、自分を磨く場所が広がっていくということなのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?