東京怪談1(掌編:10分以内)
土曜日の夜、とくに新宿のような街では様々なものの境界線がぼやけると聞いております。
派手なネオンの風俗店とやかましい外国語がまくし立てられる中華料理店、アジアの雑多な雰囲気にカメラを向ける欧米の若者たち、金髪にピタリときめたスーツ姿のホスト集団、夏だというのに革ジャンを着た黒人の客引き、ハイレグのバニースーツに豊かな胸を押し込める女たち、それらを見ては何かささやき合い笑いながら往来をゆく人々。夜の始まりです。私も夜の一員として恥ずかしくない振る舞いを意識しながら、意気揚々すすんでゆきます。友人との待ち合わせにはまだ十分な時間がある。どこかおもしろそう
な店で一人一杯していくのも乙、など考えていると、ふと明るいネオンがとぎれる場所がありました。密集していた建物がそこだけぽっかり穴を開け、低くて狭い路地が延びています。寿命の近そうな蛍光灯のアーチ看板がかかり、奥に弱々しい光がいくつかともっているのは見えましたが、明かりといえはそればかりで、ほとんど、闇でありました。闇は明るい夜に取り残されて、ぽつんとそこにありました。道を行く人々は、この小さな誘惑には気づくことさえないようで、はつらつとした誘惑にばかり目を奪われて通り過ぎてゆきます。その様子がさらに、寄り道をのぞむ冒険心をはやり、闇へ一歩、私は足を踏み入れました。
喧噪は闇が吸い尽くし、そこは音がありませんでした。足下は一昨日降った雨でまだぬかるみ、おろしたての白いスニーカーが汚れるのを恐れて、私は慎重に歩を進めました。遠くに、いえ、実際はそんな遠くなかったのかもしませんが、小さな裸電球の明かりが見えるとはいえ、闇は深く、一歩進むごとに遠く、遠くへ連れ去られるようでした。闇と静けさとぬかるみは深くなるばかりで、いつの間にか私は腰のあたりまで沼に浸っておりました。仕方ないので平泳ぎのあんばいで重い泥をかき分けながらすすんでゆくと、足に石段のようなものが当たって、探ってみますとそれは階段でした。濡れて重い体を持ち上げつつ上ってゆきますと、明かりが見えてきました。先ほどまでの明かりとは違って、どこかの扉から漏れているようでした。その扉はすぐ目の前にありました。こう暗くては遠近感が狂います。なんの目印もない扉を開けるのはさすがにためらわれましたが、振り向いてももう明るい通りは遙か彼方に小さく見える程度でしたし、開けてはいけぬものならば鍵がかかっているだろうと、私はその引き戸に手をかけました。扉は思ったよりもかるく、そのあっけなさに私は驚いて声をあげました。すると、その声に反応して、中にいた人が視線をちらとこちらへやりましたが、それもほんのひとときのこと、その人はすぐに視線を元に戻すと、白く光るからだに薄く白い布をひらひらとさせながら踊るような足付きで舞台の上をくるくるとまわってみせませした。ほの赤い照明に照らし出された数名の客が拍手する、けだるい音が聞こえると、その人は一礼して舞台を降りると、地べたに座っている客の一人のそばへ座りました。
「やあやあ遅かったね」
声が聞こえて目をやると、彼がくわえ煙草でこちらへ手をあげています。私は暗い足下に気をとられながら彼があぐらをかいているちゃぶ台の向かいに座りました。
「すっかりずぶ濡れになりました」
「雨が降っていたから」
彼はハイボールのおかわりを、私はバーボンの水割りを頼んで、乾杯をし、近況を話し合いました。
「それでここはどこなんでしょう?さっきの舞台を見るに、二丁目かどこか?」
「いいや、いいや、八丁目」
なんておもしろくもない冗談を言っていると、再びショーが始まりました。先ほどの人より、私の目には美しくうつりました。先ほどの人の化粧は、舞台映えを意識しすぎて少し大げさすぎました。今踊る人は金色の短いウィッグに赤い口紅が栄えて、小さい吊り目がそれにぴったりでした。白い着物を脱いで、まるくとんがった乳房があらわれると感嘆しました。
「素敵なもんですねえ」
「あれは見た目も、触りごこちも中ほどというところかなあ」
脱いだ着物をまた少し羽織ったり、脱いだりを繰り返しながら、その人がすっかり裸になってしまうと、強く閉めた太股の間には小さな男性器も見えました。これについて私はなにを言っていいものか思いつかず、そのかわり、彼と黙って顔を見合わせることとなりました。すると彼は頷いて舞台へ向かって手を上げました。裸の美しい人はちらとこちらへ流し目をよこして、しばらく踊っていましたが、音楽がやむと、一礼をして舞台からおり、裸のまんま、私たちのちゃぶ台へ加わりました。
「この人が」
彼があごで私の方をしゃくりながらいうと、金髪の人は私に向き直ってぐぐっと口角を上げました。赤い唇がそこだけ別の生き物のように動きます。
「お美しいですね」
凡庸な私の言葉に、赤い生き物がその人の顔から離れて私の肩に飛び移り、首筋にキスをしてくれました。
「ではこちらは僕がいただいていいの?」
口のなくなってしまった人の体を抱きすくめようとする彼に、私は無性に腹が立ちました。
「口は私、体はあなた、というんではないでしょう」
「そうだったら、口は僕にくださいよ」
「そういうことでもないでしょう」
「じゃあどういうことでしょう」
「どうもこうも、この人は口とからだがそろってこの人なんですよ」
「じゃあこの人ごと、あなたが引き受けてください。僕は次のステエジを楽しみますから」
すると、すっかり口を取り戻した美しい人が私の手をとって、その人の小さな男性器に押し当てました。小さな男性器は小さいまま固くなっていました。
「へえ」
私が感心すると、その人はにこにこ笑ってこちらを見つめます。
「くる途中にあれを見ませんでしたの?」「あれっていうのは」
赤い唇はそれに答えてくれず、小さな吊り目がちゃぶ台のスナップえんどうに飛び乗ったので、赤い口に目がいるのと別のスナップえんどうを入れてやりました。
「見てないならあなた、えんどまめのお礼に見せてあげましょうか」
そういってその人が白い右手を広げると、油っぽい泥にまみれた灰色の小さなカニがわんさか這いだしてきました。カニは次から次に出てきては我先にと右手からこぼれ落ちていきますが、なにせ重い油にまみれているので、横歩きの動きは鈍く、ちゃぶ台の上に落ちたものも、スナップえんどうの皿にたどりつく前に息絶え、見る見る間に、ちゃぶ台と私たちの膝の上は灰色のカニの死骸まみれになりました。
「油はまざらないのに越境してくるもんだから、こんなになっちゃって」
「湾岸戦争のときもありましたね。かもめが重油にまみれて飛べないのが」
「あら、そんなこと思い出して。これ食べられるのよ」
「まさか」
彼は次のステエジの人を別の客にとられたので、仕方なく、スナップえんどうにマヨネーズをたっぷりつけて食べていました。ステージを見ながらなもんだから、たまに間違えてカニをとったりもしていましたが、彼の方では慣れっこのようでした。
「それ美味しいんですか」
「そう、でもちょっと気持ち悪いさ」
食べながら、ときどき私たちのほうへ視線を向けていたことに気づいていたことを、私は後日、彼にメールで伝えましたが、犬が頬を赤らめているスタンプが送られてきただけでした。だからさらに、私がくる前にあなたも別の人とそういうことをしていたんでしょう、と送ると、それには犬が目をキラキラさせてこちらを向いているスタンプが送られてきました。
どういうわけだか、帰りは濡れずにかえって来れましたが、待ち合わせには遅刻してしまいました。機嫌の悪い友人をなだめようと、持ち帰ってきたカニを一匹差し出してみると、特段気持ち悪がることもなく首を傾げていましたが、新しい飲み物がくると、邪魔だと言わんばかりに左手でひょいと払ってテーブルの下に落としてしまいました。そうしてニコニコとグラスを向けてくる友人を気持ち悪いな、なんて思って、私はもうすっかりかぶれているのでありました。
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