見出し画像

さよなら、「おはよう」。

久米悟、34歳。
「おはよう」という言葉を発さなくなって久しい。

ぼくの動画を見る人は、何時にそれを見るかわからないし、アップロードの時間を考えると夜以降、せいぜい「こんにちは」が相応しいように思う。何より、ぼく自身が朝10時前に起きるということが少なくなった。

午前10時は果たして朝と表現して良いのだろうか。世の中のほとんどの人は、10時には頭をフル回転させて人のために働いているだろうに。残りの3割はお仕事をしていない方や高齢者、それでもきっと、10時には自分のために何かをしているはずだ。ぼくはさしずめ残りの2割以下、自分のために10時に寝ぼけて起きてきて、誰の為にも生きていないただ一人の人間だと思い知る。

最後の「おはよう」はいつだったか、思い出してみる。
すぐにハッキリと思い出すことができた。
彼女が家を出ていった6年前だ。
あの日は、前日の23時から他の動画投稿者と撮影をして、朝4時くらいに帰って、11時くらいに玄関でガラガラと聞こえる物音に目を覚ました。
「おはよう」と声をかけると、「起きたんだ。…………もう帰ってこないから。またね」と返事が返ってきた。
「え、何?旅行でも行くの?」ぼくはあの時、半笑いで彼女に聞き返した。
「もう帰ってこないから。出ていくから」彼女は真顔だった。
「おはよう」から始まった会話があんなに冷ややかだったことは、後にも先にもあれだけだろう。この思い出が、自分をますます「おはよう」から遠ざけているのかもしれない。

今もぼくは、9時くらいには一度目覚めて、10時台にはなんとか上半身を起こす、そんな自堕落なリズムで生活している。寝る時間は、日によって違う。米国のIT企業が夜中の3時に新作の電子端末を発表するとなれば寝るのは自然と明け方5時,6時になる。
マンションのゴミ出しは8時半までにして下さいと書いているが、管理人がいる訳でもなく、収集車は大体12時前に来ることがわかっているから、当日の午前11時ごろに出すのが一番肌に合っているのだ。
夜中にゴミ出しをすると、不法投棄があった時なんかには自分が真っ先に怪しまれる気がしてしまう。それだけ社会的信用があるという確固たる自信がないのだ。自分に対して。

そんなこんなで、今日も11時過ぎにゴミを出す。
同じタイミングで隣の扉が開いた。最近、お隣のお宅の子供が自分で歩いて外に出られるようになったらしい。2歳前後、くらいだろうか。忙しそうだ。この子のお母さんに、小さなころから子供に「まともな時間にまともに仕事をしていない大人」の姿を見せてしまうことを大変申し訳なく思う。ほら、見慣れないおじさんがゴミ袋を持って立ってるもんだから、怖がってお母さんの脚の裏に隠れてしまった。

「……おぁよ」

えっ、

「えっ、……お,おはよう!」

子供の挨拶に対して思わず身体が発した何年かぶりのやや大きめな「おはよう」に、当の本人が一番驚く。
ふだん他人と話さないやつが久々に発する他人へのあいさつ声というのは、どうしてこうも大きめになってしまうのか。

「えー!!!りゅうちゃん、初めておはようって言ったじゃな~い!!」

お母さんはそんなことに構わず、笑いながら驚いている。子供も、母親に承認されたことが分かっているのか、「どうだ」と言わんばかりに、にやりと笑っている。
この子が人生で発した「おはよう」は、こんな反社会不適合な(最適化している、とも言える)ぼくに向けられてしまったらしい。その申し訳なさと嬉しさ、今遅れてゴミ出しをしていることがお隣にバレてしまった気まずさとが色々と混ざり合って、ぼくは小さく「おはようございます…」と正式につぶやく。

「りゅうちゃん、行こっか!!」お母さんが、子供を連れて公園へ向かう。

そういえば、大学に通っていた時に、「挨拶は敵意がないことの表明である」と講師が話していた。
お互いを仲間と認め合い、くちばしで触れあう鳥。群れの抗争を避けるために挨拶し合うチンパンジー。
それに比べ、子供に味方と認めて貰い、自らあいさつする事すらできない33歳のぼくは、なんて惨めなおとななのだろう。

いつのまにか「おはよう」には別れを告げたものだと思っていたが、偶然の再開でまだずいぶんと仲がよかったことに気付く。「おはよう」にさよならは、まだ遠いし、自分から決別することもないのかもしれない。

今日の動画は「おはようございます」から始めてみようか。
久々に、この感情をどこかに残したい、共有しておきたいと思えたから。


<続きを読む>
おい「もう駄目だ」、元気にしてるか?https://note.com/footedamame/n/n921c547c6679


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?