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「変身」;出来るだけあなたに伝わるように書く感想文㊼

「変身」(小説/1915)
 フランツ=カフカが1915年に書いた中編小説。実存主義文学の代表作として知られる。
 日本語版も数多くの翻訳者によって出稿され、文学部の卒業論文として多く取り上げられる作品としても知られているそう。
 作者であるカフカは、今年2024年が没後100年となるため改めて注目されるかもしれない。



 寝覚めが悪い朝を迎えると、主人公グレーゴル=ザムザは虫になっていた。それまでグレーゴルは布地の販売員として、両親の借金の完済のためにも身を粉にして働いており、その気苦労の多さに辟易としていた。そんな中で、虫になってしまったグレーゴルは出勤時間を過ぎても部屋から出ることが出来なかった。そして、それを詰るために来た会社の支配人にドア越しに非難される。しかしグレーゴルの言葉は通じない。グレーゴルはなんとかして虫の体のままドアを開けたが、その姿を見た両親と妹と支配人は驚き慄いたため、グレーゴルは父親によって部屋に追い立てられてしまう。
 部屋に追い立てられたグレーゴルは、虫として徐々に生活をしていくことを受け入れ、同時に「それ」は家族にとってもいないものとして扱われていくこととなる。


 面白いと思う。
 「自分」とは何かということを考えさせられたため、実存主義的な考え方に見事に僕も取り込まれてしまった。
 虫の見た目が、虫たる要件なのか?人間の見た目が人間となるなのか?



 変身の中にはふたつの変身があるそう。朝起きたら虫に変わっていた「変身」と、徐々に幼虫から成虫へと移ろい変わる「変身」。
 劇的さは前者にある。周囲からの認識も前者のほうが大きく変わる。だからこそ、彼の家族は彼に対する行動を早急に改める。しかし、移ろい変わった彼に対してはそうは出来ない。だからこそ、変わりゆく自分とその社会からの認識の違いのズレにも大きく戸惑うことになる。これは見た目に対する馴れや関心の低下が大きいのかと思う。
 それでも彼は彼のはず。思考や感情は姿を変化させたのちでも変わらない。グレーゴルはグレーゴルのままだと思う。実際、僕が姿を虫に変えたとしても、自己認識について改めなおすかどうかについては多くの再考の余地があるのではないか。変わりゆく周囲による自分に対する態度、食事の好みをはじめとする身体的な変容から彼自身について改めて捉え直すことが、自己認識の再確認する精一杯だと思う。

 僕は誰で、誰であると思われているのか?

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