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#vol.2 21世紀に読む。「大衆の反逆」が与える現代社会への示唆とは。

 2月のテーマは現代社会において、オルテガの示唆を重ね合わせてみる試み。
 インターネットが世界中に行き届き、社会全体がデジタル化に突き進む中で、オルテガの言う「大衆の反逆」はどう変化するのか、僕なりに分析してみたい。
 多少読解が困難な項目も多くなるかと思うが、できるだけアレルギー反応が出ないよう平易な文を心がけようと思う。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです!

 さて、今回扱う書籍を紹介しておく。1930年に刊行された大衆社会論。
 スペインの哲学者オルテガか第一次世界大戦後のヨーロッパ社会を分析してまとめた作品だ。名著であり、それほど本の厚みはないが内容が濃い。
 もし本書を手に取る場合は、じっくり読むことを推奨します。


第一部 「大衆の反逆」を精読する

 善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。
 それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。
 大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。
 したがってこの事実は、ヨーロッパが今日、民族や文化が遭遇しうる最大の危機に直面していることを意味しているわけである。(p11)

 冒頭から難解かつインパクトが大きい文章だ。ここで理解しなくてはならないのは、2つあると僕は思う。
①大衆が権力の座に登ったという事実
②これにより、ヨーロッパが危機に直面している

 ということだ。
 これまで中世で権力の座に座っていたのは、貴族や王様など一部の特権階級であった。それはすなわち、一般の庶民には到底手の届かないものであり、世の中を動かすという発想自体なかったはずだ。
 現代の民主主義の時代から見ると、一部の特権階級が支配する状態は想像しづらいし、嫌悪感を覚える人もいるかもしれないが、当時はその方がうまくいったわけだ。権力を一部に集約しているからこそ、庶民は幸せに暮らせる環境だった。
 この中世の「あたりまえ」が第一次世界大戦後に覆ろうとしているのだから、危機に直面していると捉えても無理はない。

 大衆とは「平均人」のことなのである。(p15)
 人間を根本的に分類すれば、第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、(中略)自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。(p18)

 オルテガが言う「大衆」の定義だ。
 ここを理解しないと、本書の全体像が見えてこない。
 まずオルテガが特徴的なのは、人間の分類を階級や社会的地位ではなく、人間の種類によって分類したことにある。
「風のまにまに漂う浮標のような人々」とオルテガは表現したが、自分自身では意思はなく、なんとなく世の中の雰囲気に合わせ成り行きで政治に参加し態度を表明する人々を総称している。
 これまではこういった人々が集団を形成したり、社会のうねりとなることはないに等しかった。ある種特権階級の意思決定に従っていればよく、権力の座に登り社会を変えると言う動きは見られない。
 ただ、1930年代において、この浮標のような人々は都市に繰り出し、施設(駅や映画館など)を占領し、ひとたびこの権利が脅かされそうになれば、この権利を毅然と主張し貫徹しようとするのだ。
 このことを主張するようになった背景を本書から抜粋したい、次に進もう。

 われわれは今日、平均化の時代に生きている。
 財産は均等化され、相異なった社会層間の文化程度も平均化され、男女両性も接近しつつある。
 そればかりではなく、諸大陸も均等化しつつあるのである。(p33)

 人々の生活水準が揃いはじめたことを示す。
 一部の上位階級しか楽しむことができなかった事柄も手軽にみんなが楽しめるようになった。
 食べ物も住む場所も遊ぶ場所も、生活水準が均一化されたことで、人と人との間の隔たりが小さくなった。背景には技術革新があり、大量のものを大量に消費できるようになった結果、みんなが同じものを安価に持てる時代になったのである。
 財産も均等、男女も平等、大陸間も差異がなくなっている。つまり、みんなが権利を主張するようになりはじめたことを意味しているのだ。

 われわれの時代は、自分がすべての時代に優る時代であると信じていると同時に(中略)
 きわめて強力でありながら、同時に自分自身の運命に確信のもてない時代。
 自分の力に誇りをもちながら、同時にその力を恐れている時代、それがわれわれの時代なのであろう。(p49)

 昔の人よりもいい暮らしをしていると考えるのはいつの時代も同じだ。当時も、過去いずれの時代以上に自分たちが生きている時代が1番良いと感じていた。
 ただ、注目すべきは自分たちの力(ここでは、科学とか技術とかを示していると解釈する)に誇りを持っているものの、その力を恐れているということだ。
 さらには、その力によって未来がどうなるかわからず、運命に身を委ねられない現状があるとオルテガは言うのである。
 いつの時代よりも最もいい時代を生きているはずなのに、どんな時代よりも混迷で先が見えないと感じている時代。これはいまの21世紀にも重要な示唆を与えてくれる。

 かつてのいかなる時代の大衆よりも強力な大衆、しかし、従来の大衆とは異なり、自己の中に完全に閉じこもってしまい、自分は自足しうると信じ込み、何物にも、また誰にも関心を払いえない、大衆人に出会うこととなったのである。(p93)

 オルテガは言う、19世紀の文明が自動的に大衆人を生み出したのだ、と。
 そして、その文明の生み出した最も顕著な産物が「国家」だと主張する。
 下記は、本書の中でも特段現代に重要な示唆を与えてくれる項目だと思う。第二部にも大きく繋がる部分なので注意深く引用を読んでみたい。

 大衆人は国家を見て、国家に感嘆する。そして国家が現にそこにあり、自分の生を保証してくれていることを知っている。
 しかし彼は、国家は人間の創造物であり、幾人かの人間によって発明され、昨日までは確かに人間にそなわっていたある種の特性と前提条件によって維持されてきたものであり、明日には雲散霧消してしまうかもしれない、という自覚は持っていない。
 また一方では、大衆人は国家の中に一つの匿名の権力を見るのであり、しかも彼は自分自身も匿名と感じているのだから、彼は国家を自分のものと信じ込んでしまうのである。(p169)

 文章から壮絶な迫力を感じるが、簡潔に言えば、国家を作ったのは一部の人間であると言うこと。だから、明日には消えていてもおかしくない概念であるということ。ただし、その匿名の権力ゆえ国家は自分とともにあると信じ続けている状態なのだ、と。
 みんながそう信じていること、言わば大きな物語を持っていることが都合が良い部分も多分にある。通貨が通貨として利用できるのも、引いては安心して生活できることもこの大きな物語が無意識のうちに共有されているからである。

 第一部は、これにて終了。オルテガが19世紀のヨーロッパ社会を見て洞察した名著。第二部では、21世紀に応用すると何が見えてくるのかオルテガの文章に合わせて考察してみようと思う。

第二部 「大衆の反逆」を21世紀仕様にアップデートしてみた

 21世紀と捉えても幅が広いので、あえて対象とする領域を狭めて考えたい。
 21世紀がこれまでの時代と決定的に違うのは、インターネットが存在しソーシャルネットという空間において人同士が繋がっているという点においてだと思う。
 今回は、ソーシャルネットワーク上における「大衆」を定義し、そのことが持つ危険性を洗い出すことを目指す。

 善し悪しは別にして、今日のインターネット社会において最も重要な一つの事実がある。
 それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。また大衆は一瞬のうちに現れ、時に増殖し、一度現れたかと思えばすぐに消滅することもある。
 大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。

 同じタイムラインという、ネット空間を大衆が同時に利用するようになった今、「世論」ならぬものが一律に可視化されるようになった。
 このネット空間における大衆が、先に見てきたヨーロッパ社会での大衆と決定的に違うのは、必ずしも全員が「ある特定の事柄」に対して不満や意見を持って意思を表明しているわけではないという点である。
 なんとなく、どこかの誰かが言った意見に対し、なんとなく共感できるという理由で行動する。つまり、それが大衆を一時的に増殖させ、無意識のうちに増幅するのだ。
 これはオルテガに言わせれば、現代の人々が遭遇しうる最大の危機に直面しているということになるだろう。

 われわれは今日、平均化の時代を生きている。そしてそれだけではなく、インターネットを介して他人の生活を疑似体験している。
 たとえ、財産がなくとも時間がなくとも、他人が経験した事柄をあたかも自分が経験したかのように共有し消費する。
 体験や経験、感じたことなども均等化しつつあるのである。

 ネット社会における「口コミ」もいい例だ。
 誰か近しい人の評価は、自身の体験価値を担保してくれる。
 それに、誰かの評価は(集合であればあるこそ)信用に足るべきものがあり、同質の感覚を持つ人達を増幅させる。
 これが悪いわけではない。オルテガならおそらく言うだろうことは、判断軸が自分がどう思うかだけではなくなった世界であり、経験や体験を均質化するには都合の良いシステムになっていることを示している。

 われわれの時代は、自分がすべての時代に優る時代であると信じていると同時に、他の時代と比べ、あまりにも先が見えない不透明であると思っている。
 自分の力に誇りを持ちながら、同時にその力を恐れ、将来に対し不安を持つ時代。それがわれわれの時代なのであろう。

 技術は発展し、スマホは行き届き、お金がなくとも無料でなんでも楽しめる。
 誰かの体験と自身を重ね、あたかも自分もその場に行ったことがあるかのような体験をする。
 ただ、同時に世界の変化のスピードが圧倒的にはやくなり、数年後どうなっているのかは誰にもわからなくなっている。
 こんなに手軽に情報が手に入るのに、先のこととなってしまうと途端になにもわからなくなる。手軽に「知る」ことができる今こそ、「知らない」ことへの恐怖が増すのかもしれない。

 大衆人は国家を見て、国家を批評する。国家は自身の生を保証してくれることを確信している。
 しかし彼は、国家は人間の創造物であり、幾人かの人間によって発明され、昨日までは確かに人間に維持されてきたものであり、明日には消えてしまうかもしれないという自覚は持っていない。
 また一方では、大衆人は国家の中に一つの匿名性を感じる。彼はその匿名かつ得体の知れない権力を批評し、時に批判する。無論自身も匿名をまとい、仲間を従えるタイムライン上においてだが。

 2月論考において、最も記載したかった内容が上記だ。
 大衆人を精密に分析し、掘り下げると、現代では瞬間風速的に増殖し、こと大衆人が興味を失えば塵のごとく消えてしまう。
 議論にはならず、目の前の情報によってのみ意見は作られ、発信してしまう。それが誰かを傷つけているとは知らずに。
 権力が大きくなればなるほど、対象が自らにとって手の届かないものであればあるほど攻撃は鋭くなる。
 自分が生きていく上で、主張したいことであれば他者の立場を鑑みず発信してしまう。これはオルテガに照らしてみれば「大衆の反逆」なのであり、今日もまた危機と隣り合わせであるという示唆を与えてくれるのだろう。

 2月の論考はここまで。
 ぜひ気になった方は書店で「大衆の反逆」をぜひ。
 それでは。

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