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論点「自己」

「自己」がテーマとなる場合、「個人と集団」「私とは何か(アイデンティティ)」「自己と他者」「自我と無意識」などが話題となりやすい。細かく見ていくと次のようになる。

① 個人と集団

 前近代から近代にかけて、科学技術が発展し、「近代化(西欧化)」がなされた。近代化によって、生まれや身分によって職業や暮らしを決められるコミュニティ(共同体)は失われ、自分の人生を自分に選び取れる「自由な社会」が到来した。
 しかし、「自由な社会」「自己責任の社会」でもある。学生が試験によって選別されるように、「なりたい自分」を実現するためには「ふさわしい能力」を求められるようになった。これは、武士の家に生まれれば自動的に武士になれるような「封建社会」(共同体)とは違い、ある種の「生きづらさ」を感じさせるものである。
 これにより、「自由に選べるが、自分の力で将来を勝ち取らなければいけない社会」(近・現代社会)は、「自由に選べないかわりに、将来をある程度約束されている社会」(共同体)よりも、「自己責任」が問われるようになった。

② 「私」の存在証明(「私」とは何か)

 「自由な社会」で生きることを重荷と感じ始めた人々は、「自分はどんな人間なのか」「自分はどう生きるのか」といったことを考えるようになる。その答えこそ「自分は唯一無二の存在である」「自分は自分である」という意識であり、これを「アイデンティティ」と呼ぶ。

③ 社会と私(自己と他者)

 しかし、新たな問題が現れる。社会と自分との板挟みである。
 社会(例えば企業)は、「あなたの代わりなんていくらでもいるよ」と言う(「社会の歯車」という言葉を聞いたことがあるだろう)。一方、自分は「私は唯一無二の存在なんだ」と考えたい。結果、現代人は2つの間で板挟みになってしまう。この板挟み状態のことを「ジレンマ」という。

④ 自分の知らない自分


 自分の顔を自分で見ることはできない。同様に、「私」は「私」自身を(意外と)知らない。
 「他人から見た自分」を「自意識」「自分で意識できない部分」を「無意識」と呼ぶ。この「自意識」と「無意識」にはズレが起こりがちである。
 青年期において、現代人は「社会と自分とのジレンマ」や「自意識と無意識のズレ」などの影響から「本当の自分はどこにあるのだろう」と悩みがちである。このような「自分探し」が許された期間のことを「モラトリアム」と呼ぶ。


 以上、4つの流れをつかんでおくことが、「自己」の評論を読むうえで有用であ る。「前近代/近代」や「共同体/個人」といった論点との関連もあるので、そちらも合わせて押さえたい。


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