日本を代表するシェフが語る「フードジャーナリズムが持つ力」
◆皿洗いからスタート
ジャーナリストの立花隆氏が今から35年前に書いた『青春漂流』という本がある。若き日に挫折しながらも、それぞれのジャンルで目覚ましく活躍し始めた若者へのインタビュー集だ。この中に、フランスの「ランボワジ」でシェフを務めていた斎須政雄氏へのインタビューがある。斎須氏は現在、東京・三田にある「コート ドール」のオーナーシェフである。コート ドールといえば、内外の有名人が足を運ぶ日本のフレンチ界を代表する名店だ。
斎須氏は高校卒業後、東京の雅叙園の調理場に就職するが、皿洗いしかさせてもらえないため3年勤めた後、千葉にあったホテルのレストランに移る。そのレストランでは、20代の料理長がスタッフにどんどんチャンスを与える環境だったため、斎須氏はここで料理長の片腕としてソーシェ(スープ担当で料理の味付けと完成をつかさどる係)を務めるまでに成長した。
その後、齋須氏はフランス人のシェフが責任者を務める六本木のレストランに移るが、ここでも洗い場スタートだった。しかし、このフランス人料理長が齋須氏の技術に目を留める出来事があり、一気にソーシェのポジションに引き上げられた。
◆フランスでの苦闘の日々
しかし、このフランス人料理長がフランスへ帰国。本格的なフレンチを学ぶには、フランスに行くしかないと文字通り身一つで海を渡った。それから再び苦闘の日々が始まる。フランス語もわからず、しかも味付けがどうしても日本人を意識したものになってしまう。厨房でフランス人シェフたちに怒鳴り散らされながらも働きづめに働く日々。唯一の気晴らしといえば、たまにホテルを予約してその部屋のお風呂にゆっくり浸かったあと、ふかふかのベッドで寝ることだったという。しかし、「我慢には慣れてるんです」という持ち前の粘り強さと、毎朝早めに入り清掃を行う勤勉さで、厨房でもメキメキと力を発揮し始めた。
◆最初は閑古鳥。ところがあるジャーナリストが訪れたとたん・・・
そのうち、齋須の人生に大きな転機をもたらす出来事が訪れる。当時パリでも数軒しかなかった三ツ星の1つ「ビバロア」で修業中に、齋須はベルナール・パコーという若き天才シェフと出会う。ベルナールと気が合った齋須は、ベルナールが独立する際に二人で店をやろうと誘われたのだ。
誘いに乗ってベルナールとともに、セーヌ川のほとりに「ランボワジ」というお店を開いた齋須だったが、ここでも苦労が待ち受ける。ベルナールは、「ビバロア」と同じかそれ以上の料理を出すが、値段はビバロアの3分の2程度に抑えるという方針を打ち出したが、宣伝など何もせずに店をオープンしたため、開店当初は親せきや知人などが数人訪れるだけだったという。
しかし「それでも料理の質は落とさない」という方針を貫いた二人に幸運が訪れる。食通として知られるフランス人が店を訪れ、新聞のグルメ欄で「このお店はパリ最高のお店だ。いずれ大統領も来るだろう」と紹介したとたん予約の電話が止まらなくなったという。このとき、齋須はジャーナリズムの力はすごいと思ったそうだ。齋須とベルナールの「ランボワジ」はやがてミシュランで1つ星をとり、かつて二人がいたビバロアは3つ星から2つ星に星を落とした。食通の間では「ベルナールが星を持って行ってしまった」と語られたそうだが、立花氏は「ベルナールと齋須が」と言うべきだろうとインタビューを結んでいる。
(日本フードアナリスト協会)
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