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なぜ吉川経家の事を語るとき、鳥取の人は泣きながら話すのか。

「その幸せ物語、お聞きあるべく候」
24節気では大寒となり、
1年で一番寒い時期に入りました。
今年は2月2日が節分で、
2月3日には立春ですから
暦の上では、春はもうすぐ、という事になります。
私の誕生日は来週の1月27日でしたので、
1年で一番寒い時期です。
私の生まれ育った山陰の鳥取県は、
とにかく晴れが少ない地方です。
毎日どんよりと曇った空が続きます。
大学で京都に住んだ時、
なんて晴れの日が多い素晴らしい街なんだろう、と感動しました。
特に冬。

冬には、大体雪か霙が降っていた思い出しかありません。

東京が大都市に発展した理由の1つには、
冬に雨が少ない、というのがあったのではないか、
というのが私の説です。(笑)
冬に雨は雪となりやすい。
雪が積もると現代ですら交通が寸断してしまうのだから
江戸時代より昔は寸断どころかすぐに陸の孤島となったという想像ができます。江戸時代に雪が降ったらもう大変。経済どころではなかったと想像できます。
越後の龍、上杉謙信が
甲府の虎、武田信玄が
屈強の軍隊を率いながら、
天下を取れなかったのは、京都までの距離が遠かったのもありますが、
雪に前途を閉ざされ冬季の活動が制限されたからですね。
戦国時代はプチ氷河期だったという説もあり、
温暖化の現代よりも2℃ほど平均気温が低かったそうです。
2℃、平均気温が低いと、米や麦の取れ高が2割前後減ります。
考えてみれば戦国時代の争乱は、当時日本の9割の農民が、
食べられないから起こったとも考えられます。
私の田舎、鳥取について今日は少しだけ書きます。
鳥取は私の住んでいた頃は冬になると雪が積もる雪国でした。
イメージないかもしれませんが、鳥取は雪が降ります。
2メーターぐらい積もるんですよ。多い時は。
冬になると高校は1時間目と2時間目は「体育」になって
全校で一斉に雪かきをする。(笑)
高校は美しいところで鳥取城のお堀に囲まれていて
お堀に積もった雪を投げ入れる。
でないとクルマが高校に乗り入れられない。(笑)
鳥取は田舎ですが、海と山と水は美しいところです。
私の入学した高校は、鳥取城という城跡の三の丸にありました。
高校のほとりに屹立している銅像があります。
吉川経家、という武将の像です。
吉川経家は、戦国時代後半に鳥取城主だった方で、
地元鳥取では、ものすごく尊敬されている郷土の英雄です。
鳥取では、織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、西郷隆盛よりも
エライ人だと思われています。
織田信長の命を受けた豊臣秀吉が鳥取城を攻めた時、
毛利に指名されて鳥取城に入り、有名な「鳥取の兵糧攻め」を受けて籠城し、
落城と同時に切腹をして城兵の命を助けた
鳥取の英雄です。
鳥取に入城する際、自らの首桶を持参して覚悟を示したとされています。
豊臣秀吉が、鳥取城を取り囲んだ当時、
鳥取城の守備兵は山名氏配下が1,000名、
吉川経家が連れてきた毛利氏配下が800人、
近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の、
おおよそ4,000人でした。
吉川経家は鳥取城に入場すると
すぐさま防衛線の構築に取り掛かり、
籠城の準備を進めましたが、
兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しかありませんでした。
これは因幡国内の米は秀吉の密命によって潜入した若狭国の商人によって
全て高値で買い漁られ、
その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためでした。
このまま行けば兵糧はひと月持つかどうかも怪しい状態であった。
6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲し、
攻撃を開始しました。
秀吉は無闇に手を出さず、
黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けるとい作戦を取りました。
秀吉が陣を敷いた一帯は、今でも「太閤ヶ平」として残っています。
私たち地元の小中学生の遠足コースでした。
鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、
陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も失敗。
兵糧は尽き、2ヶ月目には城内の家畜や植物も食べ尽くし、
3ヶ月目には守城兵の餓死者が続出し始める。
城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」
という地獄絵図となった。
それでも4ヶ月の籠城に耐えたが、
10月、経家は家老の森下道誉・中村春続と相談し、
ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは
森下道誉・中村春続だけでよく、経家は帰還させるとの意思を伝えました。
吉川常家は、毛利の一族で、敵ではあるが鳥取城攻めの原因となった
尼子一族の内乱には無関係だったからです。
しかし経家はそれを拒否し、
敗戦責任を取って自害するとの意志を変えませんでした。
困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。
10月25日早朝、経家は家臣と暇乞いの盃を交わし、
具足櫃に腰を掛けて、脇差に紙を中巻きにすると、
それを見守る家臣の座中に目をやって、
大声で「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」
と言ってから切腹しました。
「介錯は静間某という者が務めた」
鳥取の長老は、私のように地元で育った子供には
「吉川経家公のように男らしく生きなさい」
「吉川経家公のように潔く生きなさい、卑怯な振舞いはしてはいけない。」と教えます。
鳥取では自分たちの先祖のために戦って命を守ってくれた吉川経家の事を
徳として今でも大切に祭っています。
私の行っていた高校は鳥取城跡にありますが、
その高校の前のお堀に吉川経家の銅像が建っています。
彦根では井伊直弼が、滋賀県石田町には石田三成、福知山では明智光秀が尊敬されているのと同じように
鳥取市では吉川経家が、尊敬され、大切に語り継がれています。
菩提寺のある真教寺にも銅像があり、
線香が途切れた日がないと言われています。
もう400年も前の戦争の記憶を語り伝え、
敗軍の将の菩提を大切に弔う。
そういう郷土の鳥取の人の優しさを私は好きです。
吉川常家には、当時、
吉川経家は、切腹にあたり子供たちに遺書を残しています。
「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候
ひゃう(ろう)つきはて候まま 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候    かしこ
  天正九年十月二十五日    つね家 花押
 あちやこ 申し給へ   かめしゆ まいる   かめ五   とく五」
現代語
「鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。
そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて、吉川一門の名をあげた。
その幸せな物語を聞いてほしい」
(現代語訳:鳥取での守城戦では、200日持ちこたえましたが、
兵糧が尽き果ててしまいました。
そこで城主である私1人が、皆様のお役に立つため、皆様を助け、
吉川一門の名を上げるべく切腹いたします。
武士冥利に尽きます。このしあわせものがたりを語り継いでください。かしこ。
 天正9年10月25日 つけ家 花押
あちゃこ、かめしゅ、かめ五、とく五へ)
(鳥取県立博物館に本物の手紙が今でも飾られています。)
自らの最期に臨んで
「その幸せ物語、お聞きあるべく候」
と書いた幼い子供たちへの遺言にはいつ読んでも涙を禁じえません。
自分の人生を「幸せ物語」、語り継ぐべし、と子供たちに言って笑って逝く人生。
やはり吉川経家はカッコいい、と私は思います。
今でも城下ふもとにある真教寺に篤く祀られています。
私が郷里、鳥取を思う時、
中学と高校があった鳥取城跡のこんもりとした緑の山を思います。
そこに屹立するのは吉川経家公の銅像。
400年以上経っても、感謝を続ける義理堅い
郷里・鳥取の人達の優しさを思います。
それでは。

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