蘇枋の涙

蘇枋は泣いていた。声にならない声で。


オレは朝から蘇枋の違和感に気づいていた。朝、教室に入り挨拶を交わす。

「おはようございます。桜さん!」
「……」

「……はよ。」

いつも楡井とともに挨拶してくる蘇枋が今日は声をかけてこなかった。オレは不思議に思って蘇枋を見ると、彼はハッとしてぎこちなく笑う。思い出したように「おはよう、桜君」と言った。

蘇枋は上の空だった。何かを考えているような、思い詰めた雰囲気。それでいて、誰にも心のうちを開くまいとするオーラを周囲に放っていた。だから、いつもと違う蘇枋の様子に気付いた者も、蘇枋に直接問いただすことはなかった。オレがまじまじと蘇枋の顔を覗き込でも、目線を合わせようとしない。

いつも優しい笑みを絶やさない顔が、今日は明らかに曇っていた。本人もその自覚はあるだろうが、それを隠そうともしない。一体蘇枋に何があったのだろう?「どうした?」と、聞けばいいだけなのに、その一言が言えなかった。

なぜなら蘇枋の放つオーラは凄まじまかったから。誰も内に入れようとしない。蘇枋と周りとの間には明確な壁があった。オレはそれを壊そうと思ったが、蘇枋の雰囲気がそうさせてくれなかった。

仕方がないのでオレは今日一日、蘇枋をそっと窺うことにした。

午前中…
蘇枋は授業に集中もせず窓の外をぼんやり見ていた。蘇枋の席は窓際で前から三番目。オレはど真ん中の列の一番後ろ。ここからなら蘇枋のことがよく見えた。教科書とノートは開いているが、右手に持ったペンは全く動いていない。頬杖をついて、ただ窓の外をぼんやり見ている。視線の先には青い空が広がる。

その顔まではよく見えないが、何となく淋しい雰囲気なのは後ろ姿でわかる。いつもぴんと背筋を伸ばした背中が、いまはとても小さく見えた。両耳に付けたタッセルピアスが、陽に当たりきらりと光っているのは場違いのよう。

蘇枋は一体何を考えているのか。聞かなければわからないことだけど、「聞かないで」というオーラは相変わらずだ。良くも悪くも空気が読めるオレは、こういう人の雰囲気は敏感に感じ取ることができた。

(どうしたらいいんだろう……)

授業中でありながらオレはぼんやりと考えた。
(蘇枋の力になりたいな……)

昼休み…

「桜さん、お昼ですよ!」

楡井が明るい声で言う。桐生と柘浦も集まりそれぞれ近くの席の椅子を引いてオレの席を囲った。お昼はこうしていつものメンバーで食べる。もちろん蘇枋もいる。蘇枋は何も言わずにやってきて、オレの左側に座った。いつもの笑みは捨て去り、ただぼーっとみんなの会話を聞いている。無表情で大きな瞳に光はなかった。

「桜ちゃん、今日はさぼてんのあんぱんなんだね」
「……あー。学校来るときに貰った」
桐生が話を振ってきた。

「すおちゃんはいつも通りコーヒーだね〜」

「なんや蘇枋、またコーヒーか。ワシの特製プロテインも飲んでみるか?なかなか手に入らないんだぞー」

「……ありがとう。でも遠慮しておくよ」

オレは気付いていた。両膝に握り締めた蘇枋の拳が小さく震えていることに。

他のみんなはまた賑やかに話し始める。オレは気づいていないフリをしてあんぱんにかぶりつく。隣で、震えを抑えようとするかのようにコーヒーを流し込んでいる蘇枋が視界に入る。

オレがもしここで「大丈夫か?」と声をかけたら良くないことはわかっていた。蘇枋はみんなの心配を招きたくないだろうし、誰にもそれを気づかれたくないだろうから。なんせ「何も聞かないで」という無言の圧を感じる。

小さく震える蘇枋が隣にいながら、何もしてやらないのは不甲斐なかった。蘇枋の考えがわからない以上、下手に口出しもできない。何か秘密を抱えて苦しんでいる蘇枋。それはわかるのに何もしないでいるのは耐えられなかった。

蘇枋の気持ちを考慮して、ここは無理矢理、蘇枋を教室から連れ出すのがいいと思った。

「蘇枋」と、声をかけようとしたとき。

突然、蘇枋が立ち上がった。ガタッと椅子が倒れそうになるくらい勢いよく。咄嗟のことにみんなは呆然と蘇枋を見上げる。

「あ……。驚かせてしまってごめんね。コーヒーを買いに行ってくるよ。」

そう言って、蘇枋は空になったペットボトルを振ってみせ、そのまま教室を出て行ってしまった。

みんなは我に返って顔を見合わせる。きっと気付いているのだろう。蘇枋の様子が変なことに。でも、誰も立ち上がれずにいた。蘇枋を追うことは何でか憚れる。そういう雰囲気だった。

「オレが行く」

そう言ってゆっくりと立ち上がった。

去り際に、桐生が声をかけてきた。

「任せたよ、桜ちゃん」

真っ直ぐな瞳はどこか深刻で、でも顔は優しく笑っていた。まるでこうすることが正解であるかのように、楡井も柘浦も大きく頷いてみせた。

何となく、ここで動くのは自分が適任だと思った。たぶんみんなもそう思ってオレに任せたんだと思う。蘇枋を助けたい。それは他の奴も同じく思っている。みんなで追いかけなかったのは蘇枋のことを想っているから。きっと大勢の前で弱音を吐ける奴じゃない。そう思ってオレに任せたんだ。

(つくづく優しい奴らだなぁ……)

オレはその想いを噛み締めぎゅっと拳を握った。廊下に出ると蘇枋はとっくにいなくなっていた。

急いでどっちの方向に行ったのか、左右を確認する。運良く、前方の廊下の角を曲がろうとする蘇枋の後ろ姿が見えた。

オレはすかさず走り出した。蘇枋の後を追い、角を曲がると突き当たりに教室があった。  

ここまで来るととても静かな空間だった。生徒たちの騒がしい声は全く聞こえない。人気がなく静まり返っている。

教室の扉が半開きになっていた。蘇枋が入ったのだろう。

オレは一旦深呼吸をした。そして、徐に教室に入る。

蘇枋は教室の隅にうずくまっていた。膝に顔を埋めて座っているので顔は見えない。ただ、小さくなった蘇枋が体を震わせていることだけはわかった。

「蘇枋…」

そっと声をかけると、蘇枋はゆっくりと顔をあげた。

衝撃だった。

彼は泣いていた。痛々しいくらい顔を歪めて、涙を流している。一体全体どうしてしまったのだろう。

オレは咄嗟に駆け寄って、蘇枋を抱き寄せた。

声を上げずにただ体を震わせて泣いている。オレの腕の中で小さく体を丸めて震えている。こんな弱った蘇枋を見たことがない。オレは何も声をかけられなかった。なんて声をかけたらいいのかわからなかった。

ただひたすら蘇枋の背中を撫でるしかできなかった。オレの胸で泣く蘇枋。安心させたい。落ち着かせたい。どうして泣いているのかもわからない。でも今は、蘇枋が泣き止むようにただ抱きしめるしかなかった。

どれくらい経っただろう。次第に蘇枋の震えが落ち着いてきた。オレは背中をさすっていた手を蘇枋の頭に移動させ軽く撫でる。さらさらの髪の毛が指に絡む。涙で顔に張り付いた前髪をそっと払ってやる。

「落ち着いた?」

「……うん。」
蘇枋は小さく頷くと顔を上げてオレを見る。泣き腫らした目は仄かに光が戻っていた。

「……あの、桜君ごめんね。
こんな情けない姿を晒して…」

「別に……泣きたいときは泣けばいい。オレはお前がどうして泣いてたのか知らない。理由を知りたいけど、言いたくなければ別に言わなくていい。でも、お前が一人で泣いているのは嫌だ。オレはいつもお前のそばに居るんだからもっと頼れ。」

そう言うと、蘇枋は淋しげに俯いた。

何故だろう?どうしてこんな淋しそうな顔をするのだろう?何がそんなに蘇枋を苦しめるのか。そんな顔してほしくないのに。いつものように笑顔でいてほしいのに。オレと蘇枋の間には壁がある。朝にも感じたものだ。この壁を壊さない限り、オレは蘇枋のことを知れない。近づけない。心臓の鼓動が聞こえそうなくらい近くにいるのに、心の距離はとても遠い。

蘇枋が自ら心を開かないなら、オレが歩み寄るしかない。オレの手で蘇枋との壁を壊すんだ。

そうして再び勢いよく蘇枋を抱きしめた。

「そんな顔するなよ。何でそんな淋しそうなんだよ。オレが隣に居るのに。

オレが困っているとき、お前はいつも手を差し伸べてくれる。オレはお前にたくさん助けられた。だからオレだって、お前が苦しいときは助けたい。力になりたい。

蘇枋、オレに頼れよ」

蘇枋と見つめ合う。今は真っ直ぐにオレを見ている。

そして訥々と語り出した。自分の過去を。今まで誰にも話したことがないであろう彼の秘密。眼帯のこと、食事のこと、師匠のこと、家族のこと。そして、涙のわけを。

オレは静かに聴いていた。相槌も打たずにただ黙って蘇枋の話に耳を傾けた。

蘇枋は心を開いてくれた。彼の秘密、弱音、本音。全てをオレにみせてくれた。それが嬉しかった。近づいても離れていく蘇枋を、いまは一番近くに感じる。

話し終わった後、オレはもう一度蘇枋を抱きしめた。耳元で「ありがとう…」と囁く。顔を離してお互い見つめ合う。

蘇枋はフッと優しく笑った。それはいつもの見慣れた笑顔だった。










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