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『胡桃の箱』21 シベリア
家に帰ると、僕は冬爺の部屋のドアをノックした。
「おじいちゃん、ただいま。入るよ」
ドアを開けると、冬爺はデスクに新聞を広げて、老眼鏡と拡大鏡を使って読んでいた。僕は祖父の耳元で、大声で話した。
「はるみさんって女優さんがね、おじいちゃんと話がしたいって来てるよ」
冬爺は顔を上げると、はるみさんに目で挨拶をした。
「突然お邪魔して、すみません。これ、つまらないものですけど、どうぞ」
はるみさんは、菓子折りを差し出した。祖父は黙ったまま会釈をすると、眼鏡を外して新聞を畳んだ。
「今日は見ていただきたい物があって、お伺いしました」
彼女は紙袋から、風呂敷包みを取り出した。山吹色のちりめんの風呂敷に包まれていたのは、あのオルゴールだった。
「この箱のこと覚えてる?」
僕が聞くと、冬爺は驚いた顔をしながら、箱を手に取った。そして耳が遠いはずなのに、普通に話しを始めた。
「覚えてるよ」
「なんだ、おじいちゃん、聞こえてるの?」
「大声出さなくても、ちゃんと聞こえるよ」
僕は、驚いた。今まで耳が遠いと思っていたのは、何だったのだろう。
「この箱は、うちにあったはずだがね」
「やっぱ、そうだよね。それが回り回って、はるみさんの所にいったんだよ」
「これは昔、友人から預かった箱でな、その友人は、いつか取りに来ると言っていたのに死んでしまったんだよ」
冬爺は、遠くを見つめた。
「それがな、秋人の奴が勝手に自分の物にしてしまってな」
「それは、ひどい」
「鍵もあったんだが」
「鍵ならありますよ」
はるみさんはポーチから、鍵の付いたペンダントを取り出した。
冬爺は注意深く、鍵を見つめた。
「どこで、これを?」
「昔アンティークショップで買ったペンダントに付いていた鍵とゼンマイが、偶然ですがこのオルゴールのものだったみたいで」
そう言うとはるみさんは、鍵を開けてゼンマイを巻いた。
オルゴールは涼やかな音色を奏でた。
冬爺は目を閉じて、じっと聞き耳を立てている。
曲が終わると、はるみさんはバックから写真を取り出した。
「実はこの写真が、オルゴールのパネルの裏に隠されていたんですが、何かご存知ないかと思って」
冬爺は老眼鏡をかけ、目を細めながら拡大鏡を写真にかざした。しばらく注意深く写真を眺め、そして裏返した。
「ミハイル、 ミハイル アクセノフ」
祖父は、写真の裏に書かれた文字を読んだ。
「おじいちゃん、ロシア語、読めんの?」
僕は驚いた。
冬爺は何も言わずに眼を瞑った。何かを思い出そうとしているのだろうか。しばらく僕らも黙っていたが、やがて冬爺は口を開いた。
「ミハイル。そう、彼の名前はミハイルだ」
「この人のこと、知ってるの?」
冬爺は、頷いた。
「ミハイルは、紅毛碧眼の美青年だったよ」
「会ったことあるの?」
祖父は大きく頷き、しばらくしてから口を開いた。
「シベリアでな」
はるみさんと僕は、息を飲んだ。
今まで祖父が、シベリア抑留について語るのを聞いたことがない。過酷な体験をした祖父は、過去の記憶を封印することで、精神を保っていたからだと思う。
「ごめんなさい。辛いことを思い出させちゃって。もう無理されないで下さい」
彼女はそう言ったが、祖父は凄惨な過去に立ち向かおうとした。そして宙を見つめながら、話し始めた。
「ミハイルとは、不思議な縁でね」
冬爺は太平洋戦争の後、シベリアに抑留され、劣悪な環境の中で強制労働をさせられた。
零下三十度にもなる極寒の中での強制労働と飢餓で、仲間が次々に死んでいく。日本人だけでも、数万人の死者が出たという。
飢えをしのぐために祖父は、深夜に寝床を抜け出しては、食べられそうなものを探して回った。そうやって、なんとか命を繋いでいたのだ。
しかしある晩、ソ連兵に見つかってしまう。ソ連兵は祖父を手招きすると、胸のポケットから手帳を出して、月明かりの下で名前を書くように命じた。
祖父は一瞬、架空の名前を書こうかと思ったそうだ。しかし、その名前によって知らない誰かが、犠牲になってしまうかもしれない。
そこで仕方なく、正直に自分の名前を書いた。
「これで終わりだと思ったよ」
祖父の瞳に、恐怖の色が甦る。
「その日はそれで済んだんだが、いつ呼び出されるかと思うと、生きた心地がせんでね」
「怖かったでしょうね」
「でも結局、何も起きなかった」
しばらくして、祖父は無事に日本に帰還することができた。
「そのソ連兵が見逃してくれなかったら、僕も生まれていないってことだよね」
祖父は頷いた。
その後、祖父は東京の新聞社の記者になった。
記者になって二十年以上経った頃、ソ連から来た舞踏団の取材をすることになる。舞踏団は、日本とソ連の国交回復十周年の記念行事のために来日していた。
祖父は、団員たちのリハーサルの様子の取材をするため、劇場を訪れる。そこには、通訳兼広報役の、背の高いロシア人の男性がいた。
祖父が名刺を渡すと、その男性は名刺を凝視した。そして胸のポケットから古びた手帳を取り出すと、ある頁を開いて見せた。
そこに書かれた文字を見て、祖父の背中には冷たい汗が流れ落ちる。
『古城冬人』
それは祖父の名前だった。
驚いた顔をする祖父に向かって、その男性はにっこり笑いながら日本語で話した。
「ワタシヲ オボエテイマスカ?」
祖父は、男の顔を見つめた。目の前にいるロシア人は、シベリアで自分を見逃してくれたソ連兵だったのだ。
そして男も、祖父に名刺を差し出した。
「たしか名刺が、あったはずだがな」
冬爺はデスクの引き出しから、名刺が入った桐の箱を出した。僕は箱から名刺の束を取り出してデスクの上に広げ、はるみさんと二人で一枚一枚確認した。
「これかな?」
僕は、ロシア語で書かれた名刺を手に取った。裏返すと、片仮名で名前が表記されている。
「うわあ、ミハイル・アクセノフだって。鳥肌立ってきたあ」
「そうさ、その時の彼が、ミハイル・アクセノフだよ」
「それは、不思議なお話ですね」
はるみさんの言葉に、冬爺は頷いて話を続ける。
それからミハイルと祖父は、何度も会った。彼は表向きには日本とソ連の文化交流の仕事をしているが、実際は地下組織のメンバーなのだと言う。
そして彼は祖父に、日本での活動のサポートを要請し、このオルゴールを託したそうだ。オルゴールのメロディーは、仲間内での暗号を解読するための鍵になっていたのだ。
「そうだったんですね」
はるみさんは、感慨深げに言った。
「実は、私の祖父の名も、ミハイル・アクセノフって言うんです」
「ほう、それはまた奇遇ですな」
また、話がややこしくなりそうだ。
「私の祖母が、礼文島の出身なんですけど」
「利尻島なら昆布の産地で聞いたことあるけど、礼文島は知らないな」
僕は、話に割り込んだ。
「その利尻島の隣の島なの。でも礼文島で採れた昆布も、利尻昆布って言われちゃうから残念なんだけどね」
「そうなんだ」
「その礼文島で、祖母はロシア人と知り合って結婚したんです。でも祖父は、祖母と生まれたばかりの父を置いて、行方不明になってしまって」
「へえ、はるみさんのおじいさんって、ロシア人だったんだ。もしかしたら、この写真の人だったりして」
「私も、そうじゃないかなと思ったの。それで冬人さんが、写真について何かご存知ないかなと思って、押しかけてしまって」
しばらく黙っていた祖父は、一枚の名刺を指差した。僕は、それを取り上げた。
「緑川文雄」
新聞記者の様だ。
「彼に連絡取ってみるといい」
はるみさんと僕は、スマホで名刺の写真を撮った。
「今日は、貴重なお話を有難うございました」
彼女はタクシーを呼び、帰って行った。
それにしても、秋人パパには幻滅した。冬爺が命の恩人から預かった大切なオルゴールを、勝手に持ち出すなんて。しかも鍵を骨董屋に売り飛ばして、オルゴールは燃やそうとしていたなんて。
悲しいことだが、事実を知れば知るほど、叔父のイメージが悪くなっていく。
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