『胡桃の箱』23 父の顔
数日後、白石はるみは礼文島に飛んだ。島には祖母と母の墓があり、彼女の父親も暮らしている。
はるみはミハイル・アクセノフの話を、一刻も早く父親の茂に報告したかった。
ミハイルと雪乃の間に生まれた茂は、父親の顔を知らずに育った。子ども時代は裕福な母の実家で過ごしたが、出戻りの母親と異人との間に生まれた子供にとって、居心地の良い環境ではなかった。
元来負けず嫌いの茂は努力をし、東京の大学を出て大企業に勤めた後、家庭を築いた。しかし娘が九歳の時に妻に先立たれて、やむなく退職する。
失意の中で茂は、イワン・アクセノフと名乗り、自宅で細々と英会話教室を始めた。日本生まれの彼の母国語は日本語なのだが、外見は、全くの西洋人だった。そのお陰で、彼のことをネイティヴスピーカーだろうと勘違いした生徒が、続々と集まってきた。
彼の教室「イワンズ イングリッシュ サロン」は、テキストを用いた授業を六〇分行い、その後三〇分は英語で世間話をするというスタイルだった。
そして月に一度、希望制で日本語厳禁のティーパーティーを開いた。すると暇を持て余しているマダム達が、手製の焼き菓子などを携えて集まって来る。茂が独身だということも、彼女たちの関心の対象となっていた。
生徒が増えると茂は教室を増やし、俳優やモデル志望の外国人をアルバイト講師として雇った。
そうこうしているうちに娘が芸能界にスカウトされ、世間からも注目を浴び始める。しかし、そうなると良からぬ人間も群がって来た。
ニュージーランドに分校を創る話が持ち上がり、茂はまんまと乗せられてしまう。その時に娘を広告塔にしたお陰で、短期間に多額の資金を集めることに成功した。ところが共同経営者に騙され、莫大な負債を抱え込むことになってしまう。
はるみは茂のたった一人の肉親であり、自分も関わった責任を感じて、父親の借金を肩代わりすることを決意した。
幸い仕事に恵まれて返済の目処がついた時、男手一つで自分を育ててくれた父親の為に、礼文島に小さな家を建てた。
家の一階で、茂はカフェを経営していた。白とブルーを基調とした海辺のカフェは、訪れる者に癒しを与えてくれる。此処へ来るのは、何時以来だろう。
木製の扉を開けると、カランコロンとドアベルが鳴る。中へ入ると、まっ黒な猫が足元にじゃれ付いた。
「ミーシャ、会いたかったよ」
はるみは猫を抱き上げ、頬ずりした。
「パパー、ただいまー」
「ああ、お帰り」
「なんか、いい匂い」
「今ね、アクアパッツァを仕込んだとこだよ」
「あら、いいわね。はい、これ。お土産」
はるみは、スパークリングワインを渡した。
「サンキュー。こりゃいいやつだな。今日は定休日だから、二人で飲もうよ」
茂はワインクーラーに濃い目の塩水を張り、ボトルと大量の氷を入れた。
はるみは店の二階に上がり荷物を降ろすと、祖母と母の遺影に手を合わせた。
「おばあちゃん、ママ、ただいま。あとで、ゆっくり話しに来るね」
そして下に下りるとカウンターに座り、父親が料理をするのを眺めなら、ワインが冷える様にボトルを回し続けた。
「パパ、元気だった?」
「見ての通り、元気そのものだよ」
「いつも美味しいもの食べてるから、元気なのかもね。ずっと元気でカッコいいままだから、パパの周りだけ時が止まっているみたい」
「そいつは、どうも」
ワインが冷えると、二人はイカのマリネを肴に飲み始めた。
「うーん、おいしーい。幸せー」
「ちょくちょく帰って来いよ」
「そうねー。そうしたいけどね」
茂はキッチンで飲みながら、アクアパッツァやパスタなど、出来立ての料理を出してくれる。
「わあ、すごーい。パパも、こっち来て一緒に食べようよ」
「うん、今いくから先に食べてて。なんせ、料理はタイミングだからな」
「また腕上げたでしょ。パパの料理は何でも美味しいなあ」
「だけどロシア料理は作れないよ」
「それでいいよ」
茂の料理に、はるみは心まで満たされた。最後にデザートのレモンソルべを食べ終わると、父と娘はリビングに場所を移した。
「ところでなんだけど」
「改まってなんだよ」
「パパに話さなきゃいけないことがあるの」
「何だろうな」
はるみは意を決して、オルゴールのこと、写真のこと、冬人から聞いた話、緑川の話など、一切を話した。娘の話を聞きながら、茂は居たたまれなくなった。
「そうだったのか。こんな話、ワインを飲みながらじゃないと聞けなかったよ」
茂は、深いため息をついた。
「パパ、大丈夫?」
「ああ、なんか気持ちの整理がつかないよ。でもミハイルさんって、過酷な人生を送った人だったんだな」
「本当に大変だったろうね。それからね」
「なんだい?」
「ミハイルさんの写真も見つかったの」
「ええ?写真?そんなものがあったのか?」
「オルゴールに入っていたの。その写真、二階のおばあちゃんの写真の隣に飾っていい?」
「ああ」
茂は、動揺している。
「ちょっと俺、キッチン片付けてから行くよ」
「分かった。上で、待ってるね」
はるみは、ミハイルの写真を大きく引き伸ばして額に入れていた。そしてチェストに飾ってある、祖母と母親の写真の間に置いた。
「ほうら、おばあちゃん。ミハイルおじいちゃん、連れてきたよ。やっと会えたねえ」
雪乃は笑っていた。ミハイルも、妻と嫁に挟まれて嬉しそうだった。
「おじいちゃん、両手に花ね」
そこへ茂が、上がってきた。
「うわあ、ミハイルさん。カッコイイじゃないですか」
「おばあちゃんが言ってた通り、ハンサムな人だったのね。それにパパと似てるよ」
「そうか」
そう言うと、茂は手を鼻にあてた。
「ごめん、ちょっと泣けてきた」
「そりゃそうよね。私、下でミーシャと遊んで来るから、思いっきり泣いて」
「ありがとう。そうしてくれるか」
茂は、写真をじっと見つめた。ずっとずっと会いたかった父親の顔は、想像していた通りの笑顔だった。
「父さん、」
この一言を、どんなに言いたかったことか。
「父さん、会いたかったよ。本当に、会いたかったよ」
言いたいことが、山ほどある。
「日本に何度も来てたんだってね。だったらさ、だったら、俺たちに会いに来て欲しかったよ。父さんに面と向かって、文句の一つでも言いたかったよ。それなのに、母さんにも俺にも会わずに死んじゃうなんてさ、あんまりじゃないか」
思いが通じているのか、写真のミハイルは悲しげに見えた。
「なあ父さん、俺ね、結構頑張ったんだよ。本当に苦しかったけど、頑張ったんだ。母さんも俺も苦労したんだよ。分かるかい?」
茂は、最期まで夫に会えることを信じ続けていた、母の姿を思い出した。
「でも父さんも、大変だったんだろうね。今は天国で、母さんに会えてるのかな?母さんに、許してもらえたのかな?」
茂は母親の写真に目を向けた。写真の二人の眼差しは、温かかった。ミハイルと雪乃に見つめられて、子供に戻ったような気持ちになった。
一時間ほどして、茂が降りてきた。テーブルの上には、オルゴールが置いてある。茂は我慢していた思いを、娘にぶつけた。
「やっぱり俺、ミハイルさんのこと許せないな。何度も日本に来ていたくせに、母さんにも俺にも、顔を見せないって酷すぎないか」
「会いたかったよね」
「少なくとも母さんには会って欲しかったよ」
「でも、おじいちゃんも、本当はおばあちゃんとパパに会いたかったと思うよ。きっとパパの百倍くらい、パパに会いたかったんじゃないかな」
「そうかな」
「そうだよ。だって自分の子どもに会いたくない親なんて、いないじゃない」
茂は、娘の瞳を見つめた。
「そうだな」
そして、娘のほっぺたを優しくつまんだ。はるみは、微笑んだ。
「それから、これね。これが、ミハイルおじいちゃんの写真が入っていたオルゴールなの。聴いてみる?」
「まだ泣かせる気か?」
「一緒に泣こうよ」
はるみは、オルゴールのゼンマイを巻いた。優しい音色が、部屋いっぱいに響く。
「おや、この曲」
「そう、私も思ったの。おばあちゃんが、歌ってたよね」
「なんだっけ」
「きたかぜさんが ふいている」
「こなゆきさんも ふってくる」
「ぼうやの おうちに ふゆがくる みんな まっしろ まっしろけ」
「そう、それそれ、思い出した。懐かしいなあ」
「これって、おばあちゃんのオリジナルの曲じゃないの?」
「そうだな。いつもデタラメな歌を作っては、歌ってる人だったもんな」
「じゃあ、このオルゴールは、ミハイルがおばあちゃんのために作ったのかな」
「そうかもな。そうとしか考えられないな」
「やっぱり、おばあちゃんに会おうとしてたのかもよ」
「そうだとしたら、嬉しいけどな」
茂の顔が和らいだ。
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