見出し画像

『凸凹息子の父になる』8 いたずらと魔法


 ある朝、目覚めてキッチンに行くと、そこは別世界になっていた。

 なんと床一面に米がぶち撒けられて、真っ白になっている。家の中に雪でも降ったのかと思う程だ。
 それだけではない。カウンターの壁面が、チョコレートクリームで仕上げられた巨大なアート作品と化しているではないか。
 その迫力に圧倒され、しばらく私は見入ってしまった。家族が寝静まった深夜に、迸るエネルギーを爆発させた渾身の力作。まるでゲルニカだ。

 しかし、この作品の作者の姿が見えない。いったい彼は、ピカソは、何処へ行った?
 辺りを見回すと、生後11ヶ月の画家は、チョコレートにまみれてリビングに倒れていた。
 見ると息子は、私の靴下を履いてる。昨夜、ソファの横に脱ぎっぱなしにしていたやつだ。靴下は息子が履くと長さが膝上までになり、ニーハイブーツの様になっていた。
 この芸術家は真夜中のキッチンで芸術を爆発させた後、寒さに気づいて私の靴下を履き、力尽きて眠ってしまったようだ。
 その様子に、妻と二人で笑ってしまった。 

 別の日、次女が寝るときに抱いている人形が見当たらない。その晩は、べそをかいている次女に、妻は代わりの人形を持たせて何とか寝かしつけた。

 深夜になり、私は生徒たちの答案の添削やプリントの準備などを終わらせ、寝る前に風呂に入ろうとした。
 みんなが寝静まっているので、なるべく音を立てないように風呂のフタをそうっと開ける。そして目にした光景に、息を呑んだ。

 浴槽には、次女が探していた人形が、服を脱がされた状態で、うつ伏せに浮いていたのだ。

「ひゃあっ」

 変な声が出てしまった。人形だと分かっても、不気味な光景だった。人形を浴槽に投入した犯人は誰だか分からないが、深夜の風呂に浮かぶ人形は、薄気味悪く光っていた。


 ある初夏の日、海岸沿いの松林の中にある公園に、やって来た。林の中なので、日差しが和らぎ風も涼しい。
 公園なので様々な遊具もあるが、林の奥には巨大な鳥かごがあった。そこには色々な珍しい鳥が飼われており、孔雀も数匹いた。孔雀達は、勿体付けたように羽を閉じていて、あの優美な姿を簡単には見せてくれない。

「おーい、羽を開いてよー」

 長女が孔雀に話しかけている間、次女は自分の帽子に、松ぼっくりを集めている。翔太は、足元の松ぼっくりを掴むと鳥かごに向かって投げた。
 鳥かごに張られている金網の目が細かいので、松ぼっくりは中には入らなかった。けれど小さな鳥たちが驚いて、飛び立つ。

「翔ちゃん、投げちゃだめ」

 長女が怒った。
 すると、その声に反応したのか雄の孔雀が、ケーっと鋭い声で鳴いた。そして青と緑と金色の美しい羽を広げる。それはそれは美しかったのだが、それよりも大音量の鳴き声に驚いた。  

 一羽が羽を広げると、他の雄たちも負けじとケーっと声をあげ、次々に羽を広げて歩き回る。鳥かごの中が、急に狭くなった。彼らは互いに羽を見せびらかし、競い合っているようだった。

 その中に一羽だけ、白い孔雀がいた。その孔雀も、真っ白なレースの様な羽を広げる。白い種類の孔雀なのか突然変異なのかは分からないが、その美しさに見とれてしまった。孔雀界のジュディ オングだ。

「うわー、きれい」

「ほんと、こんなの初めて見たな」

 我々の視線が自分に集まっているのを、白い孔雀は分かっているかの様だった。すると他の孔雀がケーっと鳴き、白孔雀をつつこうとする。孔雀でも嫉妬するのだろうか。
 結局、白孔雀が羽を広げたのは一度きりだった。


 この松原の中には、古い西洋建築の洋食屋がある。その昔、石炭の買い付けに来ていたイギリス商人の邸宅だった建物だが、今は欧風料理の店になっている。
 階段を数段上がり中に入ると、漆喰の壁と高い天井の落ち着いた空間が広がる。靴の音が、硬い木の床に響くのもいい。
 店主は昔からの知り合いで、子供たちにも良くしてくれる。

「いらっしゃいませ。こちらへ、どうぞ」

 奥の席に案内され、メニューを決めた。料理が来るまでの間、子どもたちはロブスターの生簀を見に行く。
 ロブスターは、お互いに怪我をさせないようにするためなのか、両方のハサミに太い輪ゴムがはめられていた。その姿を見ると、食べるのは可愛そうになる。

 もっともロブスターなど高級な物には手が出せないので、シーフードカレーとパスタを注文した。その他にサラダと焼きたてのパンを頼み、家族で取り分けて食べる。
 カレーにもパスタにも魚介類の旨みと香りが凝縮されていて、ソースの一滴も残したくないくらい旨かった。

 食事が済み店を出ると、店の裏の浜辺に向かった。砂浜には自生したハマヒルガオのピンクの花が、咲き乱れている。
 子どもたちは靴を脱いで、海に向かって走りだした。そして海の中に足を浸す。波が寄せては返し、その度に足元の砂が波に持って行かれる。

「わー、流されるう」

「ひゃはー、ちゅめたーい」

 娘たちは服が濡れないようにたくし上げながら、波打ち際で遊んでいる。引いていく波を追いかけたり、寄せて来る波から逃げたり、波と追いかけっこをしていた。

 翔太にとっては、生まれて初めて見る海だ。私も靴と靴下を脱ぎ、息子を支えながら足を海水に浸けてやった。しかし息子はよろけて、しりもちをついた。もうビショ濡れだ。
 しょうがない。服を脱がせて、翔太はオムツ一丁になった。

「翔ちゃん、裸んぼ」

 翔太は手についた砂の感触が、不思議なようだ。そして濡れた砂を掴むと、それが何かを確かめるように口に持ってく。

「おい、食うな」

 しかし、時すでに遅し。翔太の口の周りには砂がついて、髭面の親父のような顔になった。私は翔太の口の中に人差し指を入れて、砂をかき出した。小さな口には小さな歯が生え始めている。 
 息子は砂が美味しくないものだということが分かると、掴んでは投げるという遊びをはじめた。

 娘たちは砂の山を作り、山にトンネルを掘る。トンネルを流れる川と池も作った。そして川と池に水を満たそうと、海水を両手ですくっては流すという地道な作業を繰り返していた。
 そこへ巨大怪獣、翔太が現れる。翔太は掴んだ砂を山に乗せるつもりで、山そのものを破壊した。

「きゃー、助けてー。怪獣が来たわ。逃げるわよ」

「たすけてー」

 娘たちの会話が、芝居がかってくる。怪獣は、あっという間に山も川も踏み潰してしまった。

「さあ、風が出てきたから、そろそろ行こうか」

 レストランの駐車場まで戻る途中、砂浜には白い貝殻が沢山打ち上げられていた。娘たちは歩きながら、それらを拾い集める。今日一日で、宝物がたくさん増えた。
 我々は駐車場の脇にある足洗い場で、足や体についた砂や塩を落とし、翔太はオムツと服を替えた。車に乗ると、みんなすぐに寝てしまう。
 家に帰りつくと、私は砂まみれになった車の掃除をした。


 夜になった。妻が和室に布団を敷き始める。娘たちはダブルベッドを今まで通りに使っていたが、翔太はベビーベッドを卒業して、畳に敷いた布団に妻と寝ていた。ところが布団が敷き終わると、

「わあ、海だー」

 子どもたちは昼間の続きで、布団を海に見立てて遊び出す。よっぽど楽しかったらしい。そして、泳ぐ真似を始めた。翔太も姉たちの真似をする。
 このテンションだと、しばらくは寝ないだろう。もう、好きにさせるしかない。

 放っておいても、布団なので溺れる心配はない。濡れたり、砂で汚れたりもしない。しかし、埃が舞う。私は窓を開けた。娘たちはベッドから、布団の海に繰り返し飛び込んだ。
 翔太も姉たちの真似をして、ベッドによじ登っては後向きに下りて布団に転げ込む。そして三人は、シーツや布団カバーの裏にまで潜り込む。

「たすけてー」

「大変、あんりちゃんが溺れているわ。助けにいかなくちゃ」

 また長女が、芝居を始める。

「また、怪獣が来るわよ。逃げて」

「きゃー」

 次女も長女に合わせる。翔太は、すっかり怪獣呼ばわりだ。それにしても怪獣も娘たちも、いつまでたっても寝そうにない。そこへ妻の登場だ。

「今から魔法の国に連れて行ってあげまーす。行きたい人―?」

「はい、はーい」

「はーい」

「では、魔法をかけるので、横になって目を瞑ってください」

 子どもたちは、ベッドに横になり目を瞑った。妻は電気を消すと、魔法をかけた。

「さあ、今から10数えると、みんな魔法の国に着いていますよ」

 そして、ゆっくりと数を数える。

「ひとーつ、ふたーつ、みっつー、よっつー、いつつー、むっつー、ななつー、やっつー、ここのつー、とうー」

 驚いたことに、三人とも催眠術がかかったように寝てしまった。
 妻は、本当に魔女なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?