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『凸凹息子の父になる』1 イチゴ畑の側で


 1999年の夏も暑かった。
 子供の頃に読んだ『ノストラダムスの大予言』によると、その年の7月に空から恐怖の大王が降って来て、人類が滅亡するらしかった。

 本を読んだ直後こそは、子供だったこともあり未来に対して漠然とした恐怖を抱いていたし、巷でもちょっとした騒ぎになっていた。しかし他のことで気を紛らわせているうちに、いつの間にか忘れてしまっていた。
 さて、あの騒ぎはいったい何だったのだろう。果たして、あの予言は成就するのだろうか。そんなことを思い出していた夏の未明、突然彼がやって来た。

 暑さで寝苦しい晩だった。
 目が覚めて時計を見ると1時20分。
目をつぶって寝返りを打ち、しばらくウトウトするが、また目が覚める。それを何回か繰り返すうちに、どうにも眠れなくなってきたので起きあがった。
 トイレに行き、台所で冷たい麦茶を飲んだ。台所のカレンダーには、妻がスケジュールをびっしりと書き込んである。
1999年の7月、そういやノストラダムスの予言なんてあったなあと、ぼんやり考えた。

 すると、妻が顔をしかめながら起きてきた。

「ごめん、起こした?」

「ううん、お腹痛いの。なんかね、始まっちゃったみたい」

「えっ、始まったって、何が?」

「陣痛」

「ええっ?」

 一気に目が覚めた。

「病院行く?」

「お願い」

「子供たちは?」

「二人とも寝てる」


 今回は、妻にとっての三度目の出産である。だから本人も周りの家族も慣れているはずだった。
 予定日は三日先で、明日から上の子供たちを妻の実家に預かってもらうことになっていた。
 ところがだ。
毎度、予定通りに行かないのが出産である。

 長女は3歳3ヶ月、次女は1歳10ヶ月。
こんな夜中に熟睡中の幼児達を外に連れ出すのは、狂気の沙汰だ。しかし子ども達だけ残して出かけた時に、災害が起きないとも限らない。
 育児というものは、常に想定外の緊急事態に向き合わなければならないのだ。

 先ず私はガスの元栓を締め、家中の戸締りを確認した。その間にも妻の陣痛は、強くなっていく。

「お願い、早くして」

「わかってるよ。もうちょいガマン.」

 私はジーンズを履き、財布をポケットに入れた。そして眼鏡をかけ、家の鍵と車の鍵がついたキーホルダーを握る。
真夜中の静まり返った住宅街に、ガレージを開ける音がやたらと響く。ご近所には申し訳ないが、仕方がない。

 痛がって歩くのもやっとな妻を抱えて、車の助手席に乗せながら思った。さっき喉が渇いて無意識に飲んだのが、麦茶で本当に良かった。もしもビールでも飲んで運転ができなかったら、妻から一生恨まれ続けたであろう。
 そして眠くてぐずる娘達を、後部座席のチャイルドシートに一人ずつ乗せる。これだけでも、汗だくになる。

 玄関に鍵をかけ、妻の荷物を彼女の足元に積んだ。うずくまって痛がる妻に、なんとかシートベルトを装着させた。
私はドアを閉め、運転席に座る。そして事故を起こさないように細心の注意を払いながら、スピードを出した。

 深夜で交通量が少ないこともあり、15分ほどで病院についた。
先に電話連絡をしていたので、待機していた美人の助産師さんが手際よく対応してくれる。すぐに妻はストレッチャーで分娩室に運ばれた。
 その間に娘達を、待合室にある作り付けの大きなベビーベッドに寝かせた。

 その後私は、分娩室に呼ばれた。
 妻の尋常ではない痛がりように、見ているこちらの方が苦しくなってくる。
 実は出産に立ち会うのは、今回が初めてなのだ。
長女と次女は妻の実家の福岡で生まれたので、陣痛で苦しんでいる妻の姿を見たことがなかった。
 しかし今、目の前にいる彼女は私が知っている妻とはまるで別人のような形相で、人生最大の大仕事に立ち向かっている。この痛みと苦しみがいつまで続くのだろう、そう思うと気が遠くなりそうだった。

 しばらくすると、貫禄のある女性の医師が部屋に入って来た。

「はい、いいですか。せーので、いきみますよ。せーの、力入れて、力入れて」

 妻がこめかみの血管が切れそうな勢いで力を入れる。

「はい、その調子、もう一回」

 それを何回か続けているうちに、赤ん坊の頭が見えてきた。
そして肩が、と思った次の瞬間、体がするりとすべり出た。

 ついに生まれた。期待していた瞬間だ。

 ところが、どうしたことか赤ん坊の泣き声が聞こえて来ない。何だ?どうした?どういうことだ?

「酸素っ、酸素、酸素! 早く、早くっ!」

 女医が叫んだ。
 辺りは一気に緊迫した空気に包まれ、助産師たちが慌しく動き出す。
 赤ん坊は酸素吸入を施された。

 しばらくすると、弱々しい泣き声が聞こえた。

「ひぃっ  ひぃっ  ひぃぃ  」

 これが産声か?想像していた泣き声、よくドラマや映画などで聴くような産声とは、まるで違った。
 あまりにも泣き方が弱々しいので、不安になって来た。
すると女医が赤ん坊の顔を軽く叩き始めた。

「ほらほら、もっと泣かんね」

 同時に、驚いた赤ん坊がまるで怒っているかのように泣き出した。大きな声をあげて、右足で宙を蹴りながら力いっぱい泣いた。
 なかなかのキックだ。
 このキックは胎児の時からの癖のようで、妊娠中の妻を度々苦しめていたのを思い出す。
 泣いているうちに赤ん坊の身体に赤みがさし、女医が言った。

「まあまあ、元気、元気。これだけ元気なら大丈夫ね。元気な坊ちゃんですよ」

 ああ、良かった。息子が生まれた。息子が誕生したのだ。
今、私の目の前で小さな命が全身全霊で泣いている。奇跡の瞬間に立会い、涙が私の両眼から溢れ出した。

「ありがとう、元気に生まれてきてくれて、ありがとな」

 妻も泣いていた。 親子三人で泣いた。

 これが、私と彼との最初の出会いだった。そしてこの日もそうだったが、それ以降もこの息子には何度も驚かされることになる。

 息子はへその緒を切られ体を拭かれて、身長や体重、頭囲や腹囲を測られた。
 身長は51センチ、体重は3562グラム。意外と大きかった。
予定日より早く生まれたから良かったようなものの、予定日通りだったら、難産になったかもしれない。

 すっかりきれいにしてもらい、ガーゼの産着を着せられた息子を抱かせてもらう。その頃には泣き止んで眠ってしまったが、体温の暖かさと命の重みを感じた。
 トクトクと心臓が動いている。さっきまで妻のお腹の中で羊水に浸かっていた赤ん坊が、誕生とともに肺呼吸に替わり、自力で呼吸をしている。その生命の神秘に心が震えた。そして息子をそっと妻の横に寝かせた。

「お疲れ様、頑張ったね」

「うん、すぐに生まれてくれて良かった」

 時計を見ると病院に着いてから、たった45分しか経っていなかった。
 超スピード出産だった。彼は猛スピードで、我々の所にやって来た。

「お姉ちゃんたち、お利口に寝てるかな?」

そうだ、娘達が居たんだった。

「じゃあ、また明日来るよ。お疲れ様」

「うん、ありがとう。気をつけて帰ってね」

 私は二人の娘を車に乗せ、帰途についた。


 私たち家族の住んでいる所は、佐賀県の北西部に位置する歴史と自然に恵まれ、古くから外国との貿易で栄えて来た美しい街だ。
 佐賀県といっても、地理的には福岡の方が近い。車なら博多駅まで1時間、福岡空港までも1時間半で着く距離なので、買い物も遊びも福岡方面に出かけることが殆どだ。

 この街で11月に行われる祭りは、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている有名な祭りである。毎年、秋になり何処からともなく笛や鐘の囃子が聞こえてくると、地元の人間はじっとしていられなくなる。

 そんな町で私は生まれ育ち、高校卒業後は福岡の大学に進学した。大学在学中から大手進学塾で講師のバイトをし、卒業後はそのまま塾に就職した。妻は、その時の私の生徒である。

 私の両親は二人とも公務員だったが、私が卒業して二年程で病弱だった親父が他界してしまった。
 生前、親父は言っていた。

「俺が死んだら、母ちゃんとお前には楽させてやるけんな」

 その言葉通り親父は若い頃から保険に入っていたので、亡くなった時にまとまった保険金が入った。
 おまけに父が他界して程なく、実家の近くに高速道路のインターチェンジが出来ることになったのだ。そして工事に伴い我が家は移転を余儀なくされたが、立ち退き料も高額だった。

 そこで私は思い切って、一人遺された母のために地元に帰ることにし、現在の場所に塾を併設した家を建てた。
 個人経営の学習塾を開設し、母との同居が始まったのは5年前の事だ。
 かねてから私は子供たちを受験競争に追い立てるのではなく、勉強の楽しさとコツを教えるような塾を開きたいと思っていたが、図らずも夢が実現した。
 要領良く試験のポイントを丸暗記させるより、時間がかかっても自分の頭で答えを導き出すことが後に花が開くと私は信じている。そうした私の方針が次第に親御さん達に理解される様になり、口コミで子供たちが集まってきた。

 やがて大学在学中の妻が、私の塾に興味を持って手伝ってくれるようになる。そして思いがけず、妻から逆プロポーズを受けた。まさかの出来事に驚いたが、仕事も軌道に乗り始めたし、特に断る理由もなかった。私たちは、妻の卒業を待って結婚することにした。

 結婚とは、勢いとタイミングが合わなければ出来ない。
 それは、大縄跳びの中に飛び込むのに似ている。
 私はあまり深く考えずに、結婚という大縄跳びの中に飛び込んでみた。
 しかし、いざ飛び込んでみると側から見てるよりも大変で、必死で跳び続けなければいけないことに気づく。

 そして家族が増える。
 家族が増えるということは、それだけ責任も増す。一人で縄跳びをするのは気楽だが、大縄跳びを跳んでいる時は全員が呼吸を合わせなければならない。

 一年後に長女が生まれた。
 その時のお袋の喜びようといったらなかった。お袋は、ありったけの愛情と全てのエネルギーを初孫に注ぎ込んだ。お陰で妻が嫉妬するほど長女は、ばあちゃんにべったり甘えて育った。

 しかし喜びもつかの間、長女が歩き出して半年ほどたったある日の朝、お袋は心不全であっという間に亡くなってしまった。
 長年、体の弱い親父の世話に明け暮れ、自分のことが後回しになっていたのかもしれなかった。
 親父の死も早かったが、お袋の死も早すぎる。せっかちで寂しがり屋の親父が、待ちきれずに呼び寄せてしまったのかもしれない。
 お袋には十分な親孝行はできなかったが、最後に一緒に住んで孫を抱かせることができたのが、せめてもの救いだ。翌年には次女が誕生したが、次女も抱かせてやりたかった。そして、長男も。

 大学卒業から就職、父の他界、家の建設と個人塾の開設、結婚、長女の誕生、母の他界、次女の誕生、長男の誕生まで九年弱。あっという間だった。
 そんなことを考えながら、交差点を右折した。

 全てが寝静まった深夜、黄色の点滅信号以外は暗闇の世界だ。 

 この地域は、あちこちに水田が残っている。わが家を建てた時は、ほぼ田んぼの中の一軒家状態で、昔話の世界に迷い込んでしまった様だった。それから徐々に田畑が住宅地に変わりつつあるが、まだ我が家の東側には細い路と用水路を挟んで水田が広がっている。

 また家の敷地の北側に隣接して、イチゴのビニールハウスが並んでいる。
 冬場になれば夜は、ビニールハウスに無数の豆電球が灯る。クリスマスケーキ用に出荷するイチゴに、光合成させるための電球だ。周辺は田んぼばかりで暗いのに、ビニールハウスが並ぶ一帯だけがぼんやりと金色に光るのは、何とも幻想的だ。
 家に居ながら季節の移り変わりを感じることが出来るのは、幸せなことだ。この土地を開墾し、自然と調和しながら日々の営みを続けてきた人達の努力に感謝している。

 けれど、この辺りも宅地造成が加速している。近くには無人駅だがJRの駅と高速バスの停留所とがあり、交通の便も良い。そのため福岡や佐賀に通勤や通学をする人たちをターゲットに、住宅が増えて来た。
 住宅が増えると、それだけ子供の数も増えるので私の仕事にとってはありがたいことだ。しかしその反面、我が家の窓から見える景色や音、吹き抜ける風までもが変わってしまうのは寂しいことだ。
 私はイチゴのビニールハウスを眺めながら、歌詞の意味は若干違うが、ビートルズの『Strawberry Fields forever』のフレーズを口ずさんだ。


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