再生記(2.3) 泣いた青鬼に

夕方の満員電車で泣いてしまった。人の背中が、あまりにもあたたかくて。

いつも背負ってるリュックを前側にして乗り込んだ。リュックを台に本を読もうと思っていた。

私は満員電車の中で、中間のポジションにいた。何か手すりがあるわけでもない、座席と向かいなわけでもない。ドア側に二人ずついて、挟まれて私。でも嫌いじゃない、人に体の重心を委ねるのは、結構悪くない。むしろぎゅうぎゅうであるほど、電車の揺れで体がぐらつかない。
ので、中途半端な混み具合で人の足とか踏むくらいなら身動きできない方がいい。
ちょっとだけ体験したことのあるコンテンポラリーダンスみたいな感じに思う。コンタクト・インプロビゼーションというらしい。

たぶん私はパーソナルスペースがあんまりなくても過ごせる人なんだろう。

電車のドアが閉まって、本の文字に目を落とす。

「肉親とか、友人たちとか、隣人とか、そうした他人への愛は、彼の中に潮のように満ちたり引いたりしながら、孤独の砂浜を濡らしている。」

福永武彦の本の「星雲的」の章を今日は読みたいと思った。
なんとなくある曲のメロディをおぼろげながら口ずさんでしまうように、今日はこの章ののフレーズやイメージが浮かんできたのだ。ページの場所の見当もつくくらい読み込んでいるこの本は、折々に読み返す。

「足許の乾いた砂は、それがしずかな肉親の愛や友達の愛でしょっちゅう洗われるために、かえって一層乾いて感じられる。」

ああ、そうだ、今はこの言葉が聞きたかったんだ。
ふいに出た鼻歌の原曲を聴き直した感覚になる。なんども読んでいる言葉なのに、今日はより自分の中に響いていく。そう、「かえって一層」。本当に一人でいれたなら、逆に乾いてることにも気がつかないんだよな。

傷跡に塩を塗り込むように、じくり、言葉がしみる。麻痺してて痛いんだか気持ちいんだかわかんない。

そのとき電車が、ガタンと揺れて、背中合わせになった人と触れ合う。
その背中は、実にあたたかった。

なんで?
青いダウンジャケットのその人は、本当に今まで満員電車で感じたことのない熱量を発していた。

あったけえ〜〜〜
湯たんぽみたいにあたたかい。なんだかそれだけで、全身の力が抜けるようだった。コートとダウンジャケットが電車の揺れでぶつかる。相手は座席側の人だから、ポールをつかんでいるのだろう、安定している。

一応言っておくとわざと重心をぶらしたりはしていなく、電車に身を任せてしまったという感じです。ごめんなさい。

私の中で、満員電車は集合体になる時間だと思っていたので、こんなに個を感じ、勝手に受け入れを感じたのはなかった。背中があったかいなんて!

顔も知らない人だけど、私と背中が合う、その背中があたたかい。相手が「今ここにいる」という感覚をこんなに直で感じることがあるだろうか。勝手に、嬉しくなって、泣けてしまった。
元からうっすら泣きたかったのかもしれないけど、でも、自然と涙が出てた。
周りの人にもうつむいて静かにしてればリュックに溢れた涙はきっと気づかれないし、声もかけないでしょう。
ただ、ぽろぽろ泣いた。


と、ここまで散々書きながら、電車内でのセクハラ行為に及ぶ人みたいで申し訳なくなる。ごめんなさい。
ただ、おしくらまんじゅうの満員電車は私にとって限られた人との交流にも思えてしまう。やー、満員電車嫌いな人とか知らない人と接したくない人もいるから申し訳ないのだけど。


降りる際になってなって思ったけど、この人背中にカイロ仕込んでるんじゃないかなあ?


最寄駅に着いたら、空いたスペースに移動して行った青いダウンジャケット。
おそらく不本意ながら背中で語ってくれた?あなたの温もりは、ものすごく救いだったよ。

離れたら余熱もすぐ消えるぐらいのぬくもり、心に抱いて帰路をゆく。

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