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8月31日の感傷はウソ

8月の終わりだから、軽率に文章を書きたくなった。

何かと8月31日は目立つ日だなと思う。31日の中では大晦日、12月31日の次に注目を浴びている。もはや夏の大晦日だ。

8月31日には何らかのイメージが共有されている。

多分最初に感じたのは通信教育・チャレンジの夏休みの課題に追われる主人公のマンガ。焦る少年の背景には8/31が刻まれた日めくりカレンダーがあった。

テレビでもnoteでも9月1日から学校が始まるしんどさを取り上げたものなどを見かける。

歌でもそう。昨日聴いてたももクロの「ワニとシャンプー」では
「ふと 気づけば 31日 真っ青 ナスビ色」
 「8月 最終日の 宿題!」
などと、日付を出すことで夏休みの課題に追われる姿を描いている。

これらは8月31日=夏休みの終わりとイメージを共有しているから伝わるのだ。

かくゆう私は、8月31日に夏休みが終わったことがない。
私の住んでいたところは夏休みが短くて、8月の途中には夏休みが終わっていたのだ。
8月31日、その日付に紐づけられた思い出を共有することはできない。

そもそも私が長いこと住んでいた場所では、卒業式・入学式の桜も、6月の梅雨も7月の七夕も全部なかった。

卒業する6年生のために桜の形に色紙を切ってドアを飾り付ける虚無よ。外に花なんて咲いてないのに。
"七"夕祭りが7月7日じゃないダサさ。
本州から移入された文化を頑張って植え付けようとする大人の努力。

日付と季節やイベントを組み合わせたものが主流になってしまうのは仕方ない。
仕方ないけど、さみしいもんだ。

* * *

同世代と話していて、幼少期のあるあるについていけないのは結構切ない。
それは年中行事に限った話ではなく。

たとえば、大多数の人が幼少期にやっていたポケモンの経験がないとか、大流行したマンガを読んでないとか、スマブラの思い出がないだとか。

その度に自分の趣味がメジャーだったら会話も弾むだろにと思う。
幼少期の環境がマイナーなら、せめて趣味だけでもメジャーであったら。
特にポケモンに例えた話を理解できないのはかなりコンプレックスになっている。

じゃあ、今やればいいかっていうと、もう違うんだよな。
ふりかえって感じる、小学生の熱中した記憶はもう取り戻せない。

懐メロとして紹介される当時の流行歌への共感度が低いこととかもそう。
Mステに出てるアーティストじゃなくて、小学生当時youtubeでしか聴けなかったインディーズバンド・相対性理論のことを好きになってしまったことだとか。
(まあ相対性理論に限っては上京してから知ってる人が増えてよかったけど)

* * *

上京して初めて、桜に新たな感動を覚えた。
あらゆるメディアで見てきた4月の桜はここにあって、入学式を飾ってくれた。
画面の奥やフィクションのものだった、出会いと別れの季節を彩る花びらがリアルに現れる。上京を祝うかのごとく私の周りに舞い散る。

教科書で散々見てきた美術品の現物を鑑賞したような、学習の上での喜び。
ここには日本の本当の春があった。

1ヶ月早い/遅い春のことを気にする人は少ない。
日本列島は縦に伸びている。
桜の開花時期はバラバラで、四季の風景もそれぞれ。
なのに、桜は卒業式入学式の定番モチーフで、卒業3月・入学4月は47都道府県の共通。
あらゆるメディアが、季節の姿を固定させる。
メジャーな集団に共有された、一つのイメージが地方に移入されていく。
日本は本州で、日本は東京。

地方局の天気予報でさえ、首都東京だけは絶対枠が確保されている。
天晴れ日本!万歳東京!

一足先に上京した人が帰省中、地元へのヘイトを募らせ言ったのは
「こんなとこ日本じゃない。ここは外国」
聞いた当時は腹立たしかったけど、そもそも外国だったところを日本領土にしたんだから、的を得てるか。

5月に桜が咲いて、夏休みはお盆の直後に終わる。そんな外国だ。
日本の名前を冠した外国に育った私は、大多数のノスタルジーにいくつ頷けるだろう。

私の8月31日の感傷はウソ。

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