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西尾維新『戯言シリーズ』ブックレビュー

西尾維新の人気小説『戯言シリーズ』には他者がいない。みなが独我論の世界に生きており、それぞれが世界の中心だ。他人の命や世界は完全に価値の枠組みの外側にあり、他者の尊重という発想は全く当てはまらない。これが他者の存在しない世界だ。

ラスボス西東天(サイトウタカシ)が登場したときの恐怖は、彼が「セカイ」に土足で踏み込んでくるからだ。彼は完全にその世界の人間ではなく、完全なる他性のもとに現れる。彼は「他者はここにいるぞ!」と宣言し、「世界を終わらせに来た」と言う。彼の目的は人類を滅ぼすことでも地球を破壊することでもないが、彼自身もその意図が何なのか理解していない。しかし、彼の行動は確実に世界を終焉へと導いている。

西東天が終わらせようとしたのは、「セカイ系」として閉じようとした世界ではないだろうか。彼の行動が始まってしまったら、世界に亀裂が入ってしまったら、もう止めることはできない。彼は途中で「もうやめた」と言い身を引くが、その時にはすべてが整い、世界は終わりへと進んでしまう。

確かに世界は終わった。何も変わらない。地球も人類も相変わらず存在し続けるが、確実にセカイ系としての世界は終わった。久渚の止まっていた成長は進みだし、髪も黒くなり、いーちゃんは独我論をやめて、他者の存在を認知するようになる。大人になってしまったのだ。西東天は、真の意味で完全無欠に世界を終わらせてしまった。

当時、『戯言シリーズ』が新しかったのは、自らが構築しつつあったセカイ系文学の世界を、異質なキャラクターを登場させることにより自壊させたことだ。西東天は、自分が物語の外側に立つ存在であるという。セカイ系は閉鎖的世界であるが故に、その世界という物語の外に経つ存在者を徹底的に排除している。仮にどんな存在が出てきても、それはキミと僕の関係性の中に回収されてしまう。だから、西東天は物語の外側に立たなくてはならなかった。その立ち位置から、初めて世界を終わらせることができるのだ。

『戯言シリーズ』は、一見セカイ系のようで、実はアンチセカイ系文学なのではないだろうか。


西尾維新の『戯言シリーズ』は、キャラクターの独我論的な世界観と、外部からの干渉がどのようにその世界を崩壊させるかを描いている。セカイ系文学の枠組みを打破し、他者の存在がもたらす影響を深く掘り下げた作品だといえる。


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