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10歳頃までの環境が今の自分のを作ったと感じる訳〜東北編

毎朝友達の家に寄りながら数人で登校していたのだけれど、そのうちの1人の友達の家に80歳位のおばあちゃんがいて毎朝玄関でその子を待っている間おばあちゃんが私に話しかけてくれる。

絵に描いたような田舎のおばあちゃん、腰が曲がってもんぺをはいて、手にはいつもハタキと雑巾を持っていて、玄関に置いてあるインコの鳥籠の周りを雑巾で拭き拭きしながら毎朝私に一生懸命話かけてくれるんだけれど、見事に聞き取れない!泣笑

おばあちゃんの秋田弁はもう年季が入っていてもはや別の国の言葉にしか聞こえない。九州弁しか知らなかった私には。未知の言葉。

秋田にいた約4年間これが続いた訳だけど結局おばあちゃんの伝えたかったことははぼ最後までわからなかった。

でも子供ながらにおばあちゃんを傷付けてはならないとうんうんと首を振って微かに笑みを浮かべわかってるフリをした。

するとおばあちゃんはニコニコと嬉しそうにしてくれるから。

あぁ、これでいいんだな、と学んだ。

中学に入りやりたかったテニス部が無かったので仲の良い友達もいた吹奏楽部へ。

小学校からほぼそのま全員が同じ中学に進学し、他校から来る子は転校生1〜2人くらいだった。

だから校舎と先生が変わった、制服着用するようになった…それ位の微々たる変化。

秋田で通った中学は先輩後輩の関係がとても厳しかった。部活に入っていようもんなら尚のこと。

先輩絶対。

廊下ですれ違う全ての先輩に会釈、挨拶絶対。

セーラー服のリボンは一年生は襟からスカーフを多めに出して見せてはならない。そしてスカーフの丈も真っ直ぐ直線。中2になると少しスカーフ出してもよし。そして中3になったら解放ー!何でもあり。笑

セーラー服の丈も同じく。1年生は買った時のまんまの丈。学年上がると丈がどんどん短くなる。

スカートの丈は高学年になる毎に長くしてよし。

その暗黙のルールをやぶって中1、中2が好きにやってると漏れなく呼び出される。何とも昭和な世界。笑

今思うと何か笑っちゃうけど色んな意味でここでも学んだなと思う。理不尽だらけ。でも今思うとこれはこれで良い思い出。耐性少しは出来たかな。

入った吹奏楽部も例外なく厳しい上下関係。私が配属されたパーカッションもなかなかだった。先ず1年生は楽器には準備する時以外楽器に触ってはいけない、こっそりやろうもんなら練習後のミーティングで怒られる。

机の上に一枚のタオルを敷いてひたすらその上をドラムのスティックで叩く。ひたすらずーっと時計と睨めっこしながら。立ちっぱなしでリズムの基本練習。

先輩達は常に厳しい訳ではなかったけれど見事な上下関係。

私が中3に上がるタイミングで関東に引っ越すまで部活漬けの毎日は続いた。でも同級生と過ごす時間は楽しかった。

そして中2辺りになると魔の中2と呼ばれているように子供達の中で大人に対する見方が今までと違ってくるので先生達も子供達から評価されるようになる。

当時の私たちの基準。感情的に自分の思い通りに子供達に言うことを聞かせようと怒ったり指導する先生は先ず嫌われる。反発します。これ今も同じでしょうか?

音楽の先生が最悪だった。とにかく子供達が思い通りにならないと怒鳴る。子供って大人が思ってる以上に敏感に嗅ぎ分けます。その人が自分達のことを想って指導してるかどうかなんて簡単に見抜きます。

私たち生徒の多くがその指導に従わず歯向かったのが勘に触ったのでしょう。

友人と私が代表して先生に意見をしに行ったところ。。。

今でも忘れません。

生意気だと思われたんでしょうね。

気づいたら隣に立っていた友達が吹っ飛び眼鏡も吹っ飛び倒れたのです。

3人兄弟でいつも男並みに兄たちと取っ組み合いの喧嘩をしてきて慣れている私も流石にこれにはびっくりし、怖かった。

だって大人が、しかも学校の先生が、子供が意見したら激高して子供が吹っ飛ぶ程の力で頬を平手打ちしたんですから。恐怖でしかないでしょ。

今から確実に問題教師です。

でも当時はこの手の先生も多い時代。保護者も仕方ないね、で終わる風潮ある時代だった。

だから私達もこの話は各々の親には話してない。

余りにも怖すぎて信じたくないという気持ちもあってフェイドアウト。

その時の友人とは今でも強く繋がっている秋田の友人2人のうちの1人でもある。

昔話している過程でその話題が出る事もあるけれど今なら「ほんと、あいつヤバい奴だったよね」と一歩引いて笑い話になってるけれど、当時私たちにとってはとても怖い体験でした。

その件以降、その先生にはとにかく近寄らない、指示には必要最低限従う。でもとにかく近づかない。そんな嫌な思い出もあるけれど、素敵な先生もいた。

社会のおじいさん先生と私の中2の時の担任の先生。

おじいさん先生はとにかく秋田弁が凄かった!笑

だから授業も勿論訛りのオンパレード!笑

訛りを訳す方に気がとられて歴史の中身が入って来ない!笑 でもおっとりしていて低音の話し方はどこか暖かく、でも厳しさもあり、生徒達皆んなに愛されていた先生だった。

担任の女性教師も常に私たち生達目線で話をしてくれていた印象があります。だから注意されてもあぁ、納得…となる。その行動に対しての注意だからこちらも素直に反省もするし納得もする。人格を否定したり先生の気分で感情的になる事がはぼ無かった先生だったなぁと思う。

私の中ではいつも温かく見守っていてくれた先生、という印象。

一方、2番目の兄。中2の時。

この時の担任の一言で兄は「自分は人前で面白い事をしたり言ったりするのをやめる決意をした」、と大人になってから聞き衝撃だった。

この時の兄の担任がまたとても感情的で、ヒステリックな女性教師だった。だから勿論子供達からそっぽをむかれていた教師だった。

おちゃらけた事が大好きでみんなを笑わせるのが大好きだった兄だったので、秋田に来る前迄と同じ様に振る舞っていたんでしょう。

ある日兄のその行動と人格を全否定される言葉をその教師から言われたんだそう。

確かにあの頃から兄はキャラが変わったと感じる。根本的な性格は変わらないけれど、兄はこの時確実に傷ついたんだと思う。

あぁ、そんな事があったからか…と思うと同時に私は怒りを覚えました。

でもそこで気づいた。

私たち兄弟にとって家が如何に素の自分を解放出来る場で安全地帯であったかということ。

だから外で親以外の大人にその表現することを否定され、性格や思考まで強制させられるような場面に初めて出くわして驚き拒絶し違和感を感じたんだなと。

多感な中学生の年齢という事もあったでしょう。

友達関係も女子特有のひっついたり離れたり順番に仲間内で仲間外れをし合ったり、本当に色々経験したけれど、そのおかげで大人になったなと思うし人の気持ちも考えられる余裕も出来た気がする。

でも、やっぱり一つ言える事は…「北九州と秋田」では子供同士の関係を例えると「陽と陰」だったなぁと思う。

やっぱり私は陽にいる方が心地よい。

何考えてるかわかりづらいし水面下で何かが起こっている空気感はどうも疲れる。

秋田は好きだったし懐かしいし一生の親友もいるけれど、でも私は陽の気が溢れる北九州で作られた部分が大きいなと思う。

子供ながらに色んな違いを感じた秋田での4年間。私は秋田でも沢山のものを受け取りました。

そして中3に進学する春。今度は千葉県へ引っ越すことになるのです。

続く…

mai










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