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小さな結果と大きな結果

「機会の平等」か「結果の平等」か、という議論があるが、「結果の平等」が成し遂げられた場合であってさえ、それでめでたし、というわけではない。たとえば同じ収入であってもそれを活かす力によって幸福度に大きな差があったりする。

その力はもしかしたら本人の努力だけでは埋め合わせられないもの(≒「社会資本」「ハビトゥス」)かもしれない。収入という「小さな結果(=中間成果物)」を幸福という「大きな結果(=最終成果物)」に結びつける能力に、実は大きな格差があるのかもしれない。

つまり、「「小さな結果」の平等」を成し遂げたとしてもなお解決できない重大な問題が残る可能性がある。

ほとんどの人はそんなものは個人の問題であり、そこまで面倒は見きれない、と思うであろうし、より積極的に、「個人の幸福」に社会が介入することはむしろ危険だ、と考えるかもしれない。

もちろん「大きな結果」を統一目標として国家が打ち出してそこに向かって国民を誘導するような社会はディストピアだが、「多様な大きな結果のうちのどれか一つを個々人が今まで以上に目指しやすい社会」を構想することは、それなりに意義のあることではないだろうか。

「小さな結果」に生活保障(これはこれで現状ではむしろ足りないが)の水準を超えて固執すると、そういうところが見えなくなってしまうのではないだろうか。

おそらく「結果の平等」より「機会の平等」を支持する人々の一部にとっては、こういった懸念が主張の主たる理由の一つになっているのではないかと思われる。

つまり、「小さな結果」より「大きな結果」を指向するがゆえに、それをむしろ阻害してしまいかねない「小さな結果」への固執を忌避し、「大きな結果」への動線を自由に描ける「機会の平等」の方を支持するのだ。

この「大きな結果」を指向する価値観は皮肉なことに、第三者からは(「小さな結果」への固執を忌避するがゆえに)「結果軽視」の態度に見える。

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