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事実/事実認識/行動、という3つのレイヤー

事実/事実認識/行動、という3つのレイヤーがある。
事実/事実認識の2つのレイヤーに焦点を当てれば、起こりうる事態は以下の4つに分類される。

1.事実を事実として認識する
2.事実ではないことを事実として認識する
3.事実を事実ではないこととして認識する
4.事実ではないことを事実ではないこととして認識する

そして昨今「ポストトゥルース」「フェイクニュース」といったキーワードで指摘されている問題は、2に相当する事態が非常に増えているということであり、いかにこれを「正しく」4に変えていくか、ということが課題である、とされている。
もちろんこの問題、課題は非常に重要であり、大前提であることは言うまでもない(「事実」なるものがいかにして存在しうるのか、という更なる問題はあるが)。
しかし一方で、最近は「事実そのものの無力さ」を感じることが少なくない。それは人々が事実を尊重しない、ニュースの真偽に無頓着である、という上で述べたことに相当する問題を指しているのではなく、「たとえ事実を正しく事実として認識している場合であってさえ、その認識自体を」尊重せず、無頓着である、という問題を指している。

前述の整理に準ずるならば、
1A.事実を事実として認識し、行動する
1B.事実を事実として認識し、行動しない

ということになる。
つまり、「真偽の境界をどう見極めるか」という問題ではなく、「真偽の境界を見極めた後何らかの行動を取るのかどうか」という問題である。この「行動を取るのかどうか」と言う境界が、「行動を取らないという極」に向けて大きく移動してきているように思える。

もちろん、「行動」というのは粗雑過ぎる言葉であるし、単に何らかの行動を取ればよいというものでもない。ただ、第一近似としてこういった整理はとりあえず有益であろう。

(また、事実認識の錯誤に起因する行動もまた、別の意味で問題である。これは前述の整理に準ずるならば、
2A.事実ではないことを事実として認識し、行動する
2B.事実ではないことを事実として認識し、行動しない
ということになり、問題なのは「2A」であるということになる。)

しかし少なくとも、「真偽の境界」とは別に「行動の境界」というものがあり、それは極めて重要であるということはここで述べておきたい。

そして今、「とは別に」と書いたが、実はこれらの二つの境界は「無関係ではない」とも考えている。これについてはまた改めて論じたい。

※以上の議論を整理したものが冒頭の図である。これを再掲する。

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