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[フライト日記]バイト三昧GS時代

もうダウンジャケット着ないと寒いです、オランダからさやです。

今日は思い出話を。
私は関空と成田空港でGSとして働いていました。
長い留学生活を終えて日本へと戻り社会人として歩み出したのがGSとしての道でした。(すごく長くGSとして働いていた気がしますが3年ほどです)
以前、こちらのnoteにも書きましたが、スキポール空港でGSになりたかった私ですが、ビサが切れたこと、それ以前にスキポール空港内で働くには6年以上オランダに住んでいないとダメ(犯罪履歴などを参照するため)という要項があり、留学で数年いただけでは受けることすらできませんでした。

というわけでに日本に戻りとりあえずできそうなところ受けれそうなところを片っ端から受けてみました。
そして関空の地上職をハンドリングしている会社のさらに下請けの会社から派遣社員として働き出しました。

どうしても正社員じゃなきゃやだなんていう考えはなくやりたいこと、やってみたいことを最優先に考えて即決しました(プラプラしてる場合じゃないというのもあった)

まだ20代だったし、まだまだなんでもできる!転職だってなんだってできる!とりあえず生きていくお金があれば!てな心意気でありました。

さて、最初は派遣社員で入ったのでまず時給。(1年後契約社員になりました)私は朝に出発する航空会社会社の担当が多かったので6時出社15時退社というパターンが多く一日9時間拘束で休憩1時間(8時間分の時給が発生)という感じで、休みは月に8日。年末年始などは関係なく365日シフトに入ります。担当してる航空会社の就航時間に合わせて出勤なので“夜なの?朝なの?”って時間に出社したり退社したりもあります。
会社は日本人ばかりではあったけど会社自体は外資っぽくもあり、有給休暇の申請などはしやすく、うまく休みを繋げて海外に行ったり実家に帰ったりと日々満足(というかみんな周りがそうだからそれが当たり前と思ってる)していました。
私の当時の人との交流は関西にはほぼ知り合いがいなかったため、会社の人=同期=友達という感じで、みんな空港の近くに住んでいたから部屋に遊びに行ったり、一緒にお出かけしたり、仕事終わりに遊んだりと毎日が修学旅行みたいな気分で寂しい気持ちになることもなく、休みが多くても多分私には良くなくて仕事で忙しく楽しく過ごしていました。

ただ当時はこの時給制度で“生きていく”お金は稼げるものの余裕がない。
実家暮らしの同僚もいたし、基本みんな大阪の人なので実家にヒョイっと帰り、実家からのお恵み(食料品など)をもらったり...。一方私は住んだら住んだだけ、使ったら使った分だけ(光熱費とか)、実家に帰るのもみんなの数倍はお金が掛かります。....余裕が欲しい。


そう思い、完全個人の英語の先生を始めました。
生徒と先生を繋ぐサイトがあり、それに登録し、カフェで、もしくはその人のお家に行ったりして英語を教えました。仕事が15時に終わることが多かったので、そのまま夕方から夜までレッスンし....という感じです。
もちろん本業に支障がでてはいけないので、1番多い時で5人(1日に5人ではありませんよ!)
どの方もいい人達ばかり、英語の勉強に熱心な人たちばかりで楽しいバイトでした。(そのうち何名かは国際結婚、海外移住、留学、外資系企業などに行ったりして先生としても満足のいく結果が出せました)その時から今もつながっている人もいたりして(もう先生生徒の関係ではなくお友達ですが)、私の関空ライフは楽しく過ごせました。

が!今度は年齢問題が浮上しました。
関空でのお仕事はバイトも含めて本当に楽しくて、一生この仕事でもいいかな?と思えるほどでした。が、当時彼氏もいない、同期で入社した友達も辞め始め新しい道に進み出していました。
40くらいになっても1人でこの時給制度の本業、バイトして...貯金もできない、実家は遠い....大丈夫なんだろうか
しかも40とかになったら転職なんてそう甘くないぞ...と現実を想像したのです。
そして、転職を急に心に決め、実家に近い羽田/成田で仕事を探し出しました。

関空で担当していた航空会社のハンドリングをしてる成田の会社が募集を出していたので受けると、そのまますんなり決定。
当時の面接をした人事の人も最初の1、2ヶ月は契約社員だけどすぐに正社員になるから(契約社員中は時給制だけど)すぐに固定給になるし経験者だから給与も悪くない...という説明を受け、大好きだった関空を離れて、(仕事内容は一緒だけど)別のハンドリング会社へ転職しました。

現在はこの会社はこの航空会社を担当はしていませんが、のちにとても闇があったな、と気づきました。
「経験者ですぐに正社員」という話は入社2日目であっさりなかったことにされ、関空の時よりも給与面では明らかに悪条件に。
上司や人事に話をしてものらりくらりと交わされて、入社3日目で辞めたいと思うほどに。
カウンターがオープンして飛行機が離陸するときまでの仕事は楽しいけど、それ以外がどん底に感じました。

入社してすぐに辞めたいと思ったのは事実ですが、生きていかなきゃいけないのも事実。
とりあえず関西からの引越しでまたも貯金はほぼ無し、給与がまさかの関空時代を下回る緊急事態に。
早急にまた英語の先生のバイトを始めました。10人ほど生徒さんを持ち、仕事終わりや休みの日にレッスンをし、それ以外の日は成田空港周辺のホテルでバイトも始めました。(全国にある某有名チェーンビジネスホテル)
関空では8時間勤務だったのが成田に来たらなんと、1日5時間半勤務。全くもって本業だけではやっていけません。
本業は朝早くに出社して午後2時くらいは仕事が終わり、そっからホテルのチェックインのバイトです(夜22時まで)
それ以外はホテルディナーやランチのウエイトレス(単発で呼ばれる)に行きました。
なので、成田に移ってから本業(と言っても5時間半しか働かないからバイトみたい)に加えホテルのチェックイン、英語の先生、単発のホテルのバイトをしていました

「私何やってるんだろう。関空にいればよかった。」
と何度も思いましたが、関空にいたらいたで、きっと辞めどきがわからず惨めな老後を過ごすかも...という悩みで禿げ散らかしていたかもしれません。

仕事はあるけど稼げない、その仕事は本当は好きなはずなのに会社は好きじゃない、いろんなネガティヴな感情が広がりましたが、そこに入社した時の同期は今も仲良しで、(入社して3ヶ月で2人とも辞めた)かけがえのない出会いをしました。
そしてあの時本気で辞めたいと思った時、今の仕事の募集(入社して1ヶ月ちょっとして)がでたのです。
きっと大阪にあのままいたらこの募集に手を出さなかったかもしれません。

まぁ、結果なるようになりました。


ホテルでのバイトも辛くはありましたが、ホテル業界の裏を知ることもできたし、いろんな人に出会いました(そりゃ4つも仕事してればそうなる)

ちなみに関空の会社は私が辞めてすぐに派遣、契約社員というのは廃止になり、現在は全員正社員のなっているそうです。
成田の会社は全く持ってつながりがないので現在の状態はわかりませんが、元々すぐに正社員にはなれないけど、2年くらいやれば正社員になれる制度があったので、私のように「話が違う!」ってならなければ、きっとたのしくステップアップしながら(契約から正社員になる)働けたのかもしれません。

私がGSとして働いていた時から比べ現在は働き方が変わったと思うので(関空の会社がまさにそれ)、GSとして働いてる人の頑張りが主にちゃんとお給料に反映されてるといいなぁと思います。
全部の会社がそうというわけではありませんし、地上業務を担ってる会社は実はたくさんあります。なので、昔っからGSで働いてても所属している会社や雇用契約が違う場合は私のようにバイト三昧GSじゃないかもしれません(優雅に暮らしてる人も絶対いる)

留学を終え日本に戻ってきてから3年でいろんな仕事を一気に経験できてよかったなと思っています。
日本で正社員として働いたことは一度もありませんが、私はやっぱり自分が働くならば(そりゃー正社員を超したことないですが)、人間関係が良好で自分がやりたい仕事をするに限るな...と思います。
成田でのGS時代は結果辛かったんですが、それでも仕事自体は大好きだったので、今の仕事に巡り逢えるまでは、バイトをしてでも頑張ろうと思えたのです。

やっぱり仕事に大切なのはお給料もそうですがやっぱりやりがいだな、と思います。

今、就職で悩んでいる人の背中をちょっとでも推せたらなと思い、思い出話を書きました。

それでは、また!Doei!

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