「転落ショット」の鮮烈なイメージ――マーヴィン・ルロイ監督『歩道の三人女』(Three on a Match,1932)
ひとりの女性が窓から飛び降り絶命する。確かに平静ではなかったが、錯乱して偶然にそのような事態に陥ったわけではないし、ましてや自死を望んだわけではない。かといって何者かによって突き落とされたというのでもない。彼女は白いネグリジェを身にまとっていたが、そこには口紅で文章が書かれている。それは彼女自身の手によって書かれたもので、彼女の息子の居所が記されている。息子はギャングに誘拐されていたのであって、彼女が窓から飛び降りたのは、警察に息子の居場所を伝え、解放してもらうためである。美しい母親の心理を読み取ることもできるかもしれないが、今やプレ=コード期と呼ばれる一時期に撮られた、ある種典型的な「プレ=コード・フィルム」たる本作が一筋縄ではゆかぬことは想像に難くないが、ここではそれを詳述することは避けたいと思う。
なぜひとりの女性が窓から飛び降りるシーンを記述したか。それは、このシーンの恐ろしさゆえである。ひとりの人物が転落するショットといえば、まずはマックス・オフュルスMax Ophüls監督の『快楽』(Le Plaisir,1952)を思い出さずにはおれない。目線のショットのまま転落するショットは、一度観たら到底忘れることなどできないだろう。あるいは、ひとりの人物が転落するのをワンショットに収めた黒沢清Kiyoshi Kurosawa監督の『回路』(Pulse,2001)のことも思い出すかもしれない。このようなひとりの人物が転落するショットの鮮烈なイメージのひとつに、マーヴィン・ルロイMervyn LeRoy監督がプレ=コード期に撮った『歩道の三人女』(Three on a Match,1932)も加えておきたい。このショットは、『快楽』のように一人称のショットではなく、あくまで客観的に撮られている。しかし、『回路』のようにワンショットで撮られているわけではない。客観的なふたつのショットで撮られているのだが、問題はふたつめのショットである。転落する女性を真俯瞰で捉えているのだ。この暴力性というか、恐るべきイメージは、『快楽』や『回路』とはまた異なった、忘れがたい「転落ショット」のひとつに数えられるだろう。無論、アンモラルと暴力性を否定しないプレ=コード期ゆえに、容易く生き残ることは許されてなどいない。女性はあっけなく絶命せねばならない。しかしそこにわれわれの感傷が入り込む余地などない。速やかにあっさりとエンドマークが打たれることになるだろう。優れたプレ=コード・フィルムには、われわれを突き放すようなあっけなさがある。この取りつく島のなさはいかにもB級映画的だ。
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