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典型的なプレ=コード・フィルム、または不可視の領域の禍々しさ――スティーブン・ロバーツ監督『暴風の処女』(The Story of Temple Drake,1933)

 プレ=コード・フィルムとして一般にイメージされるのは、性的暗示と暴力性であろう。性的暗示ということについては、エルンスト・ルビッチErnst Lubitsch監督の『極楽特急』(Trouble in Paradise,1932)などの作品は、その最も洗練された一例として挙げることができるだろうし、暴力性ということについては、たとえばハワード・ホークスHoward Hawks監督の『暗黒街の顔役』(Scarface,1932)のような作品を挙げることができると思う。だがこのような洗練された形ではなく、生々しくそれらが表出した作品が存在するのがプレ=コード期の注目すべき点である。その意味でスティーブン・ロバーツStephen Roberts監督による『暴風の処女』(The Story of Temple Drake,1933)は、その典型的な一例であるということができる。


 ウィリアム・フォークナーWilliam Cuthbert Faulknerによって書かれた小説である『サンクチュアリ』(Sanctuary,1931)に題材を得た映画だが、当時としてはかなり挑戦的と思われる性的描写(主演のミリアム・ホプキンスMiriam Hopkinsは強姦されさえするし、画面上に表象されはしないもののそれとわかるような画面処理、音響処理がされている)が見られるし、ミリアム・ホプキンスを強姦したジャック・ラ・ルーJack La Rue演じるギャングの暴力的な振る舞いなどは、暗示的というよりはその直截性において20世紀前半の映画の表象可能性という観点からすれば衝撃的である(実際、この映画もプレ=コード期とはいえ検閲に引っ掛かり、いくらか場面がカットされたようだ)。
 とはいえ、21世紀の日本においては、その性的描写も暴力描写も、ごく穏当なものということができる。もちろんこれは生起している事態そのものが取るに足らないというのではなく、表象可能性においてはよりいっそう直截的な手段を取ることができるということである。21世紀現在、われわれはインターネットなるものを使えば、いくらでも男性、女性問わず裸体を見ることもできるし、性交の様子をおさめたヴィデオを見ることさえできる。あるいは、たとえばいわゆるISISの映像を見れば、いくらでも暴力的な映像に触れることもできる。では、21世紀現在『暴風の処女』を観ることにどのような意味があるというのか。

 われわれが『暴風の処女』を観るとき、何より震撼させられるのは、その禍々しさにあるだろう。深い陰影の画面は、このおよそ10年後に現れることになるとされるフィルム・ノワールFilm Noirを先取っているといって過言ではない。
 ミリアム・ホプキンスが半裸の状態でベッドに座っている。もうひとりの女がその部屋の唯一の光源であるランプを吹き消す。すると、扉から煙草をくわえたジャック・ラ・ルーが現れる。扉がしまると、ジャック・ラ・ルーがくわえる煙草の火だけが真っ暗な画面に浮かび上がっている。窓の外で雷が閃き、一瞬室内の様子がぼんやり浮かび上がる。ジャック・ラ・ルーはミリアム・ホプキンスをものにしようとしているのだが、そのジャック・ラ・ルーはマッチを擦って火を点け、部屋にいたおそらく知的障碍を持っていると思われる男を問い詰める。すると、女がマッチを擦ってランプに火を点け、室内の全貌が明らかになる。この一連のシークエンスは、この陰影の深い画面がとりわけ極まった部分であり、ほとんど視覚的には不可視になる瞬間さえ存在している。この不可視には何事か闇がうごめいているのだ。映画においては、白日にさらされざる不可視の領域こそが禍々しさを留めているのだ。


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