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女たちは、歌をうたいながら死と戯れる

 調子の外れた歌声を響かせながら、手持ちのキャメラがビルディングの垂直性を強調すると、急ぎ足でひとりの女の子が郵便受けの手紙を手早く確認し、エレベーターを呼ぶためにボタンを連打するが、待っていられず階段を駆け上がることにする。ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godardの『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou,1965)に影響を受けて映画を撮り始めたひとりの女性によって撮られた即興性に満ちた作品のように思われもするこの作品が、いまや鬼籍に入ってしまったが、疑いの余地もなく、現在の映画史上最も優れた女性のフィルムメイカーのひとりであるシャンタル・アケルマンChantal Akermanの処女短篇であることはよく知られていると思う。『街をぶっ飛ばせ』(Saute ma ville,1968)と呼ばれるこの作品は、こんにちにおいては、その後のアケルマンの作品を特徴づけるさまざまな要素を含むものであることは、たとえば日本においても斉藤綾子氏が指摘しているが、アケルマンについて語るにはいまだじゅうぶんにその作品を視界に収めてはいない私は、さしあたりこの作品が、アケルマン自身が演じる少女がガス爆発により自死することで幕を下ろすことを指摘しておくにとどめておこうと思う。


 いっぽうで自死に向かいながらもその「見た目」を気にしている作品の存在も併せて指摘しておきたい。フロンザ・ウッズFronza Woodsによって撮られた『キリング・タイム』(Killing Time,1979)という短篇映画は、口笛が背後に流れながらクレジットが映し出されると、やがてベッドに身体を横たえた女性と、受話器の外れた電話を捉えたショットから始まることになる。彼女は自身の「見た目」を確認しようとして、鏡を手に取りゆっくりと起き上がる。それから衣服を身にまとい、化粧をする。そのとき彼女の前には鏡があり、キャメラは鏡に映る彼女を映し続けるだろう。彼女は、たとえば男を誘惑するためなどのために着飾り化粧しているのではない。ここには美しい死へと向かう女性の姿があるのだが、屋上まで彼女は上がるものの、そこから飛び降りる形での死は実行されることはない。やはりその「見た目」ゆえに彼女はそれを踏みとどまることになるのだ。


 いずれの作品も、死へと向かう女性の姿が描かれているのだが、『街をぶっ飛ばせ』では女性のハミングが、『キリング・タイム』でも口笛が背後で流れていることは指摘しておかねばなるまい。
 このときいまひとつの作品を思い浮かべることになるだろう。少女のハミングの印象的なメロディ(とはいえ少女だけがうたうわけではないのだが)が画面の背後で流れているが、当の少女はといえば、じつは幽霊であり、なんらかの理由で彼女はすでにこの世に生きてはいないのだ。瀬田なつきNatsuki Seta監督によって撮られた『5 windows』(5 windows,2011)と呼ばれるこの作品もまた、女性が歌とともに死と戯れる軽やかな作品であるといえる。


 すぐれた女性のフィルムメイカーは、歌をうたいながら死という一見メランコリックでネガティヴな事態と戯れる軽やかで優れた作品を撮っていることを指摘しておきたいが、これらのいずれの作品も、――このうちひとつが日本の作品であるにもかかわらず――観ることが必ずしも容易ではない現実を容認してよいものだろうか。

『街をぶっ飛ばせ』は上のクライテリオン・コレクションの『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン 』(Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles,1975)のソフトの特典映像におさめられている。

フロンザ・ウッズの『キリング・タイム』は、現在(2021年12月5日)、Another Gazeのサイトにて観ることができる。(https://www.another-screen.com/two-films-by-fronza-woods)


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