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「表象の節度」の問題――グレゴリー・ラ・カーヴァ監督『獨裁大統領』(Gabriel Over the White House,1933)

 ひとりの男が合衆国の大統領に任命される。今もそうであるが、ある人物がその国の首長に任命されるとき、そこには少なからぬ希望が寄せられるものだが、ウォルター・ヒューストンWalter Huston演じる大統領は、非決断的な態度で、ラジオから流れる声にも耳を傾けることなく息子と遊んでさえいる。そのような大統領は、ある日、車の運転中に事故を起こしてしまい、昏睡状態に陥ってしまう。九死に一生を得たウォルター・ヒューストンは、決断的で強烈なイニシアティブを発揮する人物に変貌することとなる。


 邦題の『獨裁大統領』というのはなかなかうまく、強烈なイニシアティブと決断的な態度のウォルター・ヒューストンは、結果的に政治的に成功することにはなるものの、政治体制としてはほとんどファシズム=独裁に等しいものであって、独裁体制が民主主義と矛盾しないことをアドルフ・ヒットラーAdolf Hitlerが首相に任命された年に指摘した映画は、おそらくほかにあるまいと思われもする。もっともウォルター・ヒューストンの人物像は、非介入的な政治姿勢で世界恐慌を抜け出せなかったハーバート・フーヴァーHerbert Hooverへの非同調的な態度と、逆に、ニューディール政策をはじめ介入的な政治姿勢のフランクリン・ルーズヴェルトFranklin D. Rooseveltへの同調的な態度が反映されているのではないかと思うが。


 そのような政治学――というほどたいそうなものでもないが――的な読み取り方ができなくはないものの、あくまで『獨裁大統領』はそのような題材を得た劇映画にすぎず、大それた指摘や政治的意図があったとはとても思えない。この映画は、非決断的な大統領が事故をきっかけに生まれ変わり、決断的な(そして時に横暴とさえ思われる)姿勢で世界平和を実現させようとしてしまうファンタジーのようなものである。では、いかにウォルター・ヒューストンは生まれかわったというのか。
 ベッドに横たわるウォルター・ヒューストンを画面下に捉え、奥にはカーテンが見える。そのカーテンが、吹き込む風によってかわずかにゆれる。照明が少し明るくなる。すると、ウォルター・ヒューストンが目を覚ますのである。21世紀現在において思わざるを得ないのは、いわば「表象の節度」の問題である。今や、コンプライアンスなる問題を除けばほとんどあらゆるものを画面上に表象させることが可能である。そこで問題になるのは何を表象させるのか、逆に何を表象させないのかということにほかならない。このウォルター・ヒューストンが目覚めるカットにおいて、グレゴリー・ラ・カーヴァGregory La Cava監督が選択した手段とは、カーテンをゆらし照明の光度を少し上げるだけという、ある気配を表象するにはほとんど原始的な方法があるにすぎない。だが、われわれは、それだけである納得感をもってウォルター・ヒューストンの覚醒を受けとめることができる。これで充分なのである。今や過剰ともいえる表象手段を得た映画なりテレビなり、その他映像において心掛けねばならぬ「表象の節度」。プレ=コード期とは、一般に何事も表象することができた一時期とも思われているが、そうではなく、表象しないことによって何事かをほのめかす、その技術の洗練が進んだ時期であったといえるのかもしれない。


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