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行為=アクションによって物語る職人監督の手腕――ルーベン・マムーリアン監督『恋の凱歌』(The Song of Songs,1933)

 マレーネ・ディートリッヒMarlene Dietrichは、夜も深まったころ、伯母の家に転がり込む。彼女の父が亡くなり、どうやら伯母の家に引き取られることになったようだ。だが決して歓待されているというわけではなく、伯母も「厄介者を引き受けてしまった」と毒づくことをはばかろうとはしていない。いずれにせよ、伯母の家に所属することとなったマレーネ・ディートリッヒではあるが、そのとき彼女がいかなる手続きを踏んでいたかということには注目せねばなるまい。もちろん映画を観た誰もが、そこに契約書めいたものが存在していたとはいうまいし、何事か口約束のようなものが交わされたともいうまい。そこには、脱衣という行為のみが存在していたのだ。何枚ものスカートを脱ぐディートリッヒに伯母があきれた様子で呟くおかしみがつい微笑を誘うところではあるが、そのあと、ディートリッヒがブライアン・エイハーンBrian Aherneに誘われ、彫刻のモデルとなるためにためらいがちに脱衣する光景を目にするとき、われわれは、ここでのディートリッヒは、脱衣によりある場所に所属する人物であることを確信することになる。実際、このあとディートリッヒはブライアン・エイハーンと惹かれ合い、ふたりは甘酸っぱい恋人たちを演じることになるだろう。このような事態の推移を見届けたわれわれは、ディートリッヒが婚約することとなったライオネル・アトウィルLionel Atwill演じる男爵との夫婦生活が幸福なものではないことも立ちどころに確信することとなる――ライオネル・アトウィルは、ディートリッヒに男爵夫人にふさわしい教養を身につけさせようと試みるが、文字の読み書きやピアノ、乗馬を教わるときのディートリッヒがいつも異なる衣装を身にまとっていることに注目せねばなるまい――し、その確信が裏切られることはない。ラストがハッピーエンドというよりは、宙吊りにしたまま終わるあたりはプレ=コード期に相応しいと思われもする(実際、帽子をはじめディートリッヒはいくつか脱衣という行為をしはするが、決定的に自らが身にまとう衣服を脱いではいないし、その前に「夜に生きる男に自らのヴェールを『脱がされた』」という台詞も登場している)が、注目すべきは、脱衣という行為=アクションによって物語を語ろうとするルーベン・マムーリアンRouben Mamoulianの演出ぶりである。90分少々の中に詰め込まれた物語がいささかも性急さを感じさせず、むしろきびきびとした小気味良い画面の連鎖は、トーキー映画における画面のナラティヴがすでに完成の域に達していることを感じさせてくれるだろう。


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