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疾走する映画、単純さの美徳――ロイ・デル・ルース監督『エンプロイーズ・エントランス』(Employees’ Entrance,1933)

 フレデリック=モンロー・デパートは大いに賑わっている。この賑わいに大きく貢献しているウォーレン・ウィリアムWarren Williamは冷血漢と呼ぶにふさわしい人物であるが、ある日閉店後のデパートの中でロレッタ・ヤングLoretta Youngに出会う。しかし、そのロレッタ・ヤングは、まもなくウォーレン・ウィリアムの右腕となるウォーレス・フォードWallace Fordと結婚することになる。だが、ことはそう単純ではない。パーティの席でいさかいを演じた新婚夫婦であるが、その後ロレッタ・ヤングは、ウォーレン・ウィリアムと性交に及ぶことになるのである。いよいよ込み入った彼らの人間関係ではあるが、この混乱した関係性のドラマに対して、映画そのものがやけにすっきりとした印象さえ持つのはなぜか。


 さしあたり「従業員通用口」とでも訳しうる『Employees’ Entrance』は、込み入った人間関係のドラマではある。まさにさまざまな人物が出ては入ってくる「エントランス」にふさわしい構造ではあるが、映画そのものは単純さに徹しているといってよい。今そこに生起している役者の表情を、あるいは生起している運動そのものを、いささかの衒いといったものもなくキャメラにおさめているにすぎない。造形的な畸形性とでもいうべきものは見当たらず、たとえば賑わいを見せるデパートという舞台装置に注目すれば、いの一番に思い出されるのは、グレゴーリ・コージンツェフGregorii Mikhailovich Kosintsevとレオニード・トラウベルクLeonid Zakharovich Traubergによって監督されたサイレント映画の傑作『新バビロン』(The New Babylon,1929)であるが、『新バビロン』におけるこまやかな装飾がほどこされた造形的にも目を引くデパートとそこに通う人々の狂騒的と呼ぶにふさわしい様子は、『Employees’ Entrance』で見ることはできない。もちろんそれ自体は『Employees’ Entrance』に比べて『新バビロン』が劣っていることを意味してはいないし、逆に優れていることも意味してはいない。わずかに4年しか違わない両作品の間には、埋めがたい断絶、あるいは越えがたい壁というものがあり、それは近代国家が生み出した国境というようなものではなく、端的にいってしまえば、「時代が違う」ということなのだ。今やなめらかに物語る装置として映画は機能し始めようとしている。


 ロイ・デル・ルースRoy Del Ruth監督がこのような単純さに徹するとき、映画は信じられぬ速さを獲得する。複雑な人間関係を描きつつも、わずかにも湿り気を帯びることなく、ただただ乾いた表層を疾走する。21世紀のこんにち、教訓めいた物語を語り、不必要にこしらえられた複雑さに足を取られてとても走ってはいられぬ映画を目にしてしまうと、『Employees’ Entrance』がたたえている疾走する映画のもつ単純さの美徳というべき画面の推移を息をつめて見つめるほかに、われわれにできることなどありはしない。



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