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「喧騒の果ての静寂」(2019年12月)

●12月1日/1st Dec
本日は経済学研究科の社会人大学院、博士前期過程の入試。経営学専攻の観光・地域創造分野を担当しているが、ここ数年この分野での受験者がとても増えている。
観光というのは今のところまだ一つのディシプリンにはなり得ないと思うのだが、学部や研究科というアカデミックディシプリンについて考えさせられることが多い。専門とは一体何なのだろうかと。
僕自身は農学部で学び生命環境科学科で修士と博士を取ったが、芸術大学で教え、文学研究科で哲学の授業を担当し、工学部と文学部や人文科学科で非常勤も受け持ち、今は経済学研究科で教えている。
学会もランドスケープ、都市計画・建築、観光などから、社会心理学で発表したり、人工知能学会で研究会顧問したり、医学・看護系、デザイン・アート系、イノベーション系の方々の前で話することも多い。
海外の大学の歴史地理学科で客員研究員もしていたし、宗教学者や人類学者、哲学者などと専門的な対話をすることもあれば、最近は物理学や数学の方々とも対話するようになった。
様々な意味で今は従来の意味での専門というのが、急速に成り立たなくなってきている社会状況がある。その中で専門的な知見も持ちつつ、いかにして包括するのかということが重要になると思っている。観光も含まれるが、より大きな「移動・流動」というのはその視座の一つかもしれない。
自分が知りたいと思って追いかけていることは、実は"たった一つのこと"なのだが、それを知るためには一つの領域だけでは難しい。だから個人的には、自分は「専門家」ではなく「包括家」になりたいと思う。

●12月6日/6th Dec
「問題は脳細胞自身に絶対的な静寂をもたらすことで、それは、自己の重要性や自己の存続を求めない、ということを意味しています。おわかりですか?わたしたちは肉体的なレベルで生き延びなければならず、そして、心理的なレベルでは死ななければならないのです。心理的なレベルで一千もの昨日に対する死があるときにのみ、脳細胞は静かになります。そして、その状態は、どんなかたちの思考の操作、呪文の反復を通じても、やってきはしませんーそんなことはすべて幼稚です。みなさんが思考の動きの全体を理解したときにのみ、つまり、みなさん自身ですが、それを理解したときにのみ、その状態はやってきます。そこで脳細胞はとてつもなく静かになり、外的な反応に応答する以外はどんな動きもなくなります。」

「さて、理解し、ほんとうにその状態に入っていったひとは、まず自分自身のなかに秩序をもたらすでしょう。自分自身のなかに秩序があれば、世界にも秩序が生まれます。みなさんのそれぞれが、ほんとうに自分のなかに秩序をもたらすなら、みなさんには、生きている秩序、新しい社会、新しい生が実現するのです。けれども、そのためには、生の古いパターンを壊さねばなりません。生の古いパターンを壊せるのは、自分自身の理解を通じてだけであり、その理解から愛が生まれます。」

「ご存知でしょうが、ひとは際限なく、愛について語ってきました。汝の隣人を愛せ。神を愛せ。親切であれ。けれどもいま、みなさんは親切でも寛容でもない。みなさんは何の愛もない自分自身にかまけています。そして、愛がなければ、あるのは悲しみだけです。これは、繰り返すべきただの警句ではありません。みなさんはそれを発見し、それと出会わなければならないのです。そのためには、懸命になって励まねばなりません。自分自身を理解し、絶え間なく情熱的に励まなくてはならないのです。情熱は欲望ではありません。情熱が何なのか知らないひとは、決して愛を知ることはないでしょう。愛が生まれるのは、全的な自己放棄があるときだけです。そして、愛だけが秩序を、新しい文化を、新しい生き方をもたらすことができるのです。」

●12月7日/7th Dec
本日は経済学研究科の社会人大学院の「都市文化デザイン演習」。
都市の文化を測る新たなインデックスを見つけるためのリサーチを皆でする。それぞれの学生からは面白い調査項目が出てきたが、なぜその項目を調べるのか、どうやって調べるのかという詰めがまだ出来ていないものも多く、ディスカッションを通じて精度を上げていく。
往々にしてありがちなのは、原因と結果を取り違えること。
今調べているのが目的変数なのか、説明変数なのか、またある目的変数に対して一つの説明変数だけでは答えが見つからない場合もあるので、そのあたりどういう相関を見つけるのかを訓練する。

この週末は南大阪大学コンソーシアムの集中講義「キャリアと実践」。三日間の集中講義のうち二日間を担当する。この授業は複数の大学で単位互換するもので、色んな大学から受講者が来ている。
文科省で専門教育とは別に、実際の社会でのコミュニケーション力や発想力、実践力などを培うキャリア教育の重要性が言われている。それだけでなく企業にも行政にもイノベーションにも「モノの見方」をどうすれば柔軟に持てるのかが求められているらしい。
どうすればモノの見方が変わるのか?
クリエイティブな発想をするには何が必要か?
考えを表現するにはどうすればいいのか?
そうした課題に応える形の講座だが、教えれる教員がなかなかいないらしく、僕が昨年から担当している。今年は応募が殺到したらしく、35名に厳選して応募を締め切ったそうだ。受講者には二日間でハナムラのワークショップをたっぷりと堪能してもらうので、終わった頃にはまるで違う自分と出会うことになるはず...(多分)。
午前中のワークショップで学生達の緊張は随分とほぐれて開き始めてきたので、午後からはもう少し本格的に彼らのまなざしを解体しにかかる。

●12月8日/8th Dec
本日は南大阪大学コンソーシアムの集中講義の二日目。みっちりワークショップをする。
昨日は自分の無意識にあるモノの見方を浮き彫りにするワークショップをしたが、かなり学生に響いていた様子。私の心を分析して下さいと来る学生が多く、「あなたはこういう人生を歩んできたはずだ」と返していくうちに、だんだん占い師のような感じになってくる。 
本日はガラリと変えて客観的なモノの見方をレッスンする。最初に数値とイメージとの関係をレッスンするワークショップをして、人によって数値からイメージすることがバラバラだということを共有する。
その次に昨日の積み残しの未来設計と未来予想ワークショップを経て、僕がこの15年ぐらい実験を重ねてきた「データスケープ」というワークショップをしてもらう。
このワークショップは数値データを使ってモノの見方を変えることで、地域から地球環境を考えるような内容。世界の現状を身近でリアルに見えるようにすることと、地域が持つポテンシャルを浮き彫りにすることの両方を目指す。
ただ今回は半日で成果物を出すワークショップなので、学生にはなかなかキツい。今日はかなりレギュレーションをかっちり決めたので、時間は少ないが手順としては学生にはやりやすかったのではないかと思う。 
個人的に面白かったのは、午前中のワークショップの罰ゲームで3人の学生達にやってもらったパフォーマンス。午前中に出たイメージのキーワードで、「日本」「石油」「音楽」の3つを選んだ学生達だったので、この言葉でコントをしてもらう設定にした。
もちろん役者でも芸人でもない学生たちに出来るはずもないので、こちらで設定を与えて最終的にはアイウエオ作文にしてもらったが、結構きれいにオチがついた。
終了後のコメントシートでは二日間でガラリとまなざしが変わったという意見も多く、教師冥利に尽きるところ。学生皆さんのこれからの社会での活躍が世界を導いていく。そのためのエールのつもりだが刺激を受けてくれたことに感謝。

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●12月9日/9th Dec
身体つまり五感からの情報に依存せず、また脳内の記憶や思考からの情報に依存しなければ、別のところから情報が入ってくるということかと。無色界と悟りの階梯。

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本日は経済学研究科の社会人大学院の後期の演習。ここでは修士論文の指導をするが、その前に今日は基本的な話として、「研究とは何か?」「論文とは何か?」「論理的にモノを考えるとはどういうことか?」ということを説明する。
経済学の大学院ではあんまりこうした論理学的なことは教えないのだが、社会人を指導している中で論文に勝手なイメージを持って臨む人が多いように感じる。根拠のない自説を展開する人や、研究目的と全く関係ない結論を主張する人もいる。明らかにしたいことがぼやっとしていて客観性のないようなものも多い。だから数年前から最初に体系立てて論文とは何かを話すようにしている。
研究とは自説の正当化でも利益誘導でもなく、論文とは単なる主張や提案書や事実の羅列ではない。あるフォーマットに則り論を展開する必要があるのだが、そのあたりをみっちり3時間ぐらいぶっ通しで指南する。

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●12月11日/11th Dec
今の地球環境の問題をテクノロジーやシステムの問題だと考えている以上、本質的な解決には至らないだろう。前提条件となる僕らのマインドとアティテュードにある問題が、最も気付きにくく変えにくい。
エコフレンドリーなフリや、持続可能ごっこはいくらでも出来るかもしれない。しかし一度得た快適さや快楽、感覚への刺激を断ち切ることが、僕らに果たして出来るのだろうか。自分の渇望や嫌悪を冷静に見つめることは生半可なことではないが、残された時間はそれほど多くはないのだ。まなざしを背けていると、この地球のシステムの中で我々の存在意義や役割はなくなるかもしれない。
今のバイオテクノロジーや情報技術は、マインドがアップデートされていないままの方向を向いている。このままその方向に何かを積み上げるのは崩壊を加速するだけだと危惧している。今の世界観を丸ごと裏返しにせねばならない。謙虚に自然の一部であることを自覚し、その上で経験と体感から理解する科学技術の模索をせねばならないのだろう。次の20年、もし時間が残されているなら、そういうことを考えたい。

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●12月14日/14th Dec本日は京都東山へ。宗教学者の鎌田東二先生のお宅にお邪魔して、対談本の編集会議。鎌田先生とは2016年から3年に渡って対話を重ねてきたが、ようやく本としてまとまりそうだ。
自分達で言うのも何だが、かなり多岐に渡る内容で、読み始めると止まらないぐらい面白く刺激的なものになっている。演技論、建築論、デザイン論などを皮切りに、身体、哲学、宗教、アニメ、芸術、都市、聖地、生態系、文明、進化、宇宙まで、ヒューマンスケールから地球スケールへと途切れることなく話が続いていく。
幅広い話題で展開されているので、生き苦しさやアイデンティティに悩む人から地球環境問題を深く考えたい人まで、どこを入り口にしても誰でも読んで頂けるものになると思う。
タイトルは「ヒューマンスケールを超えて」。3月には出したいので、年末年始に原稿を揃えねばならないが、いよいよ大詰め。乞うご期待。

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●12月15日/15th Dec
上海は衡山路界隈で中国茶を飲みながら、あるプロジェクトの実務案件の打ち合わせ。今の中国の政治、経済、文化の状況を聞きながら、やはり2016年あたりが一つのターニングポイントになっていることを確認する。
香港やウイグルの情報はやはりほとんど入ってきていないか、偏っているようだ。無論日本に入ってきている情報が偏っていない保証はどこにもない。それにしてもこの5年ほどの変化の様子たるや、すごい勢いだと感じる。

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●12月16日/16th Dec
この数ヶ月、撮影してきた映像がようやく本日リリースとなりました。ハナムラが監督して制作した「Seeing Differently」という短編映像です。
最近問題になっている、オーバーツーリズムや訪日外国人と地域住民との意識の違いからおこるコミュニケーションの問題に焦点を当てた内容で、関西観光本部から委託を受けて制作しました。
よくありがちな外国人の振る舞いに関して、僕らの視点の持ち方を変えて、彼らの裏側にある動機や意識を見つめることが出来ないかというメッセージを、2分程度の短い映像3本で表現しています。パッと一度見ただけでは気づかないかもしれませんが、僕らが無意識に向けてしまっているまなざしを色んな形で映像に放り込んでます。
短い制作期間と、様々な障害がありましたが、制作スタッフの皆さま、出演してくれた各国の役者の皆さまのおかげで、観光関連動画としては、あまり見ることのないような感じの映像になったのではないかと思います。
本日からのリリースなので、どこまで多くの皆様にご覧いただけるのか、またどのような受け止められ方をするのかは未知数ですが、本作品に関わっていただきました制作スタッフの皆様には心より感謝いたします。
是非皆さまご笑覧いただければ幸いです。気に入っていただけましたら、是非拡散のほどどうぞよろしくお願いいたします。
(写真のイラストは市場編にも出演していただいた日本画家の吉岡磨理先生の作品。劇中にチラッと出てくる博士です。)
[英語版]
https://www.youtube.com/playlist...
路地編  https://youtu.be/HWXDLowJ1cs
寺院編  https://youtu.be/XqN8ugo1zj4
市場編 https://youtu.be/opJW7vM3tVo
[制作スタッフ]
監督・脚本:ハナムラチカヒロ
撮影監督:地村俊也
撮影チーフ:金成基
照明:仲村逸平
照明アシスタント:原田迪治
音楽:川人千慧
CG:久世崇史
録音・整音:磯部光
メイク:足立恵美
アドバイザー:吉田徹
イラスト:吉岡磨理
協力:ベリーロールフィルム
制作:ブリコラージュファウンデーション

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●12月21日/21th Dec
能勢伊勢雄さんとの対話のために岡山へ。この一年、能勢さんから聴いてきた「ゲーテ形態学」から「神道形態学」への流れを、能勢さんが45年間護り続けてきた岡山のライブハウス「ペパーランド」の年末の冊子に寄稿した。2,000字ぐらいでという依頼だったのを大幅に飛び越え過ぎて13,000字も書いてしまったが、それでもまだ全然書ききれない内容が残っている。(オーバーするにも程があるよ...)
それでは共著に向けて対話を重ねていきましょうと能勢さんからお声がけ頂く。なんたる光栄と嬉しくなる反面、勉強量が全然足りないので身が引き締まる。少しずつかも知れないが学んでいきたい。
さて、今回からは「新・音楽の解読」の話。これまで他の人に語られることのなかった近代以降の音楽史であり、リアルタイムに聴いてこられた能勢さんにしか語れないような内容。"我々は音楽に対してどのような感覚で向き合うべきなのか?"、"音楽とは一体我々にとっていかなるものなのか?"という中心的な問いの中で進む。
音楽を理解するのに音楽だけ追いかけていても理解出来ない。その時代がどういうムードに包まれ、何を問題としていたのかを理解しないと、なぜその表現が生まれたのかが読み解けないのだ。インダストリアルミュージックが生まれたのは、工業社会が背景にある。工場の機械が生み出すリズムと人間の身体の間とがどのように関係を持っていくのかという問いの中で出てくる表現だ。LSDやサイケデリックの中で生まれる音楽表現、ドローンミュージック。全て我々の中の時代観や無意識に感じ取るものと無関係であるはずはない。
18世紀から19世紀までの和音を組み立てて作る調声音楽は貴族たちのものだった。しかしそれは産業革命からアーツアンドクラフツ運動を経て、台頭する庶民の日常生活に密着したものになる。ウィリアム・モリスの壁紙に寄り添うエリック・サティのピアノの単音。それは貴族の世界観とは異なるものだ。
それが戦後、大きく変わる。無調音楽へとシフトするのだ。その背景にはワーグナーに代表される調声音楽が戦争と大きく関わったことへの反省がある。ピエール・ブーレーズのピアノソナタを聴きながら、現代音楽の始まりを感じる。循環性の中に一つとして同じパターンがないミュージックセリエリズムの音はまるで叫びを発しているかのようだ。それはナチスによって強制収容所に連れて行かれた作曲家たちの声を代弁する。自由に音符を書くことが許されない作曲家たちの声なき声...。
戦後、ムジカヴィヴァという運動とも呼べる音楽会が重ねられたことが、現代のロックやテクノ、プログレの苗床となる。我々が知る音楽の原型はこのムジカヴィヴァの中にあるのだろうが、どうにも音源が残っていないのが歯痒い。
その流れの中で、キャバレーヴォルテールに集まった人々が日夜実験を繰り広げた。デ・ステイルと呼ばれる運動からはモンドリアンが生まれ、イタリアの未来派、そしてダダやシュールレアリスムが出てくる。そんな潮流にロシア構成主義のエル・リシツキーなどが関係を持っていった。実はその潮流がバウハウスへと引き継がれることでデザインとの接点が生まていくのだが。
音楽史の中でもデザイン史の中でもほとんど語られることのない音楽史観について、少しずつ学びながら対話を重ねていきたい。

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●12月22日/22th Dec
何週間ぶりに日曜に休みが取れた。ゆっくりとすればいいものを、僕の暴走する精神はそう落ち着かず、やはり経済系の本を読み漁ったり思考を整理する時間に当ててしまう。この10年ほどは縁あって経済学研究科に所属しているので、それまで全くの専門外だった経済学が自分の思考の射程範囲に入ってきてしまった。
経済学が学問として歩んだ歴史はたかだか200年程度のものだが、人間にとっての経済活動は太古より行われてきた。だが、この2世紀ほどの社会は、経済学が数学と結びついて生み出した理論に基づいたものであり、これまでの経済活動とはまるで異なる状況を生んだ。
20世期は資本主義と社会主義の戦いの歴史であり、その結末として資本主義が勝利をおさめたが、それが極まって暴力的な状況が生まれているのは誰もが感じているところだ。「資本主義」と「自由主義」と「市場経済」は同じなのか、「生産者」と「労働者」と「消費者」は異なるのか、「貨幣」と「経済」と「情報」はどんな関係にあるのか。全ては我々のまなざし、つまりは物事の捉え方なのだが、それを誤ると結果も間違ったものになる。
今の社会は商品貨幣論を根拠にした素朴な経済ではなく、金融と財政と市場と主義が複雑に入り組んで実態が見えなくなってしまった経済だ。そこからの脱却を主流派経済学の中で計るのは難しい。根底から全く違うまなざしをそこに向けねばならないのだが、果たして我々にそれを受け入れることができるのだろうか。
連載を通してもそんなことを考えていきたい。
Wireless wired 「ネガティヴの経済学」
https://wirelesswire.jp/2019/10/72432/

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●12月23日/23th Dec
我々全員がこれまでの経験を通じて自明であると信じているもの。当たり前であるとしてきたこと。
そういうものの存在や根拠が実は最も疑わしいという真実が突きつけられた時にショックを受ける。その際たるものが何なのかをよく考えておくことだ。

●12月24日/24th Dec
毎年クリスマスになるとこの詩を思い出す。
ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられている「病者の祈り」という詩だ。
先行きが見えない混乱した時代だが、この星が慈悲と平和に満ちて、すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。
(写真は拙作「地球の告白」)
When the Christmas comes, I always remember this poem.
It is written on the wall of Institute of Rehabilitation Medicine in NYC.
This is the time of confusions, however I prey our planet will fulfill with peace and happiness. All life on the planet will be happy.
「病者の祈り」
大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ
I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...
I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...
I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...
I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...
I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...
I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!

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●12月27日/27th Dec
ひとまず研究室の年末整理をする。昨年の年末は東成区のアトリエを整理していたので大変だった。大きな工場をリノベして10年間運営してきたアトリエだったので、総計3トンぐらいのモノを処分したのではないかと。その時に思うところあって、「廃棄」について考え始めた。
ともあれ、今年はまだスペースがコンパクトなので基本的にはほぼ紙の整理になる。僕の場合カバーしている範囲が広いのでファイリングが大変だが、まるで関係ないジャンルを一望出来るシステムで整理せねばならない。新聞の情報整理も含めて、今年実験的に試したシステムを来年は本格的に運用していかねば。

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●12月28日/28th Dec
「わたしたちが話し合っているのは、新しい精神をもたらすことであり、それが可能か、ということです。汚染された精神は新しい精神ではあり得ません。ですから、わたしたちは汚れを取り除くことについて、それが可能かについて話しています。それに関連して、わたしは、あなたが意味する否定とは何か、と尋ねることから始めました。否定がそれと大きな関係があると思っているからです。それは真の否定です。さて、それは可能でしようか?おわかりになりますか。わたしが政治や経済、社会関係、野心、貪欲が含まれる社会を完全に否定しないなら-それらを完全に否定しないなら、新しい精神をもつとはどういうことかを見出すのは不可能です。ですから、最初に基盤を突き崩すのは、既知のものごとの否定です。それは可能でしょうか?」

「この既知から未知への移行は、どのように起こるのでしょう?
ひとは、どのように否定するのでしょう?非常に劇的な出来事においてではなく、些細な出来事において、ひとは既知を否定しますか?髭を剃っていて、スイスでの楽しいひとときを思い出すとき、わたしは否定するでしょうか?楽しかったときの思い出を、ひとは否定しますか?それに気づいて、そして否定しますか?それは劇的でもないし、目覚ましいものでもなく、誰もそれについて知りません。それでも、些細なことについての、この絶え間ない否定が、一度だけの大掃除ではなく、小さな払拭が、その小さな掃除が本質的で不可欠なのです。それはどんな動機があってするのでも、未知のとてつもない状態に入るためにするのでもありません。
未知に入りたいからではなく、一掃し続けることができますか?未知とは何かを、あなたは決して知ることができない。なぜなら、それが未知だと認識した瞬間に、あなたは既知に戻っているからです。
認識のプロセスは、継続する既知のプロセスです。未知が何かを知らないからには、わたしにできることはたった一つ、起こるたびに思考を一掃し続けることです。」

「「否定」という言葉が何を意味するか、ご存知ですか?過去を否定する、ヒンドゥー教徒であることを否定するとは、どういう意味でしょう?あなたは何かを否定したことがありますか?真の否定と偽りの否定があります。動機がある否定は偽りの否定です。目的のある否定、意図のある否定、色目を使っている否定は否定ではありません。何かを得ようとして、何かを否定するなら、それは否定ではありません。だが、動機がない否定があるのです。わたしが否定し、将来に何が待っているかを知らないとき、それは真の否定です。わたしはヒンドゥー教徒であることを否定し、どこかの組織に属することを拒み、特定の信条を否定し、その否定そのもののなかで自分を完全に不安定にします。そのような否定をご存知ですか?あなたはかつて何かを否定したことがありますか?あなたは過去をそんなふうに否定できますか?ー将来に何があるかを知らずに、否定するのです。あなたは既知を否定できますか?」
(Krishnamurti on Education)

●12月31日/31th Dec
This end of the year, I spend the time in Buddhism temple with monks.
I want to spend the quiet moment with meditation in the bridging time to 2020. Now this world is already going to catastrophic period. Even if we know our efforts will be failed, we have to pour our mercy to every life on this planet. I pray all lliving things will be happy.
今年の最後の時間を僧侶たちと寺で過ごす。瞑想しながら静かな時間の中で2020年を迎えたいと思ったからだ。
今、この世界はすでに壊滅的な時期に向かっている。たとえ無駄だと分かっていたとしても、この星に生きる全ての生命に慈悲を傾ける時間が必要だ。生きとし生けるものが幸せでありますように。

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