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「苦の発見」(2020年8月)

●8月1日/1st Aug
ここのところ2016年のアメリカの大統領選前後から今回の新型コロナ騒動までの流れについて調べている。そこには様々な立場からの情報ノイズがあるので、丁寧に選り分けないと簡単に立場が絡め取られてしまうが、昔に比べて情報がかなり出てきてるので、概ね全体像が見えてきたか。
ただ、この5年の流れを知るためには、その前の15年間を調べないといけないし、その15年間を知るためには、それ以前の50年間を調べないといけない。今起こっていることを知るためには、歴史を長尺から観ないといけないので、結局は数百年から数千年の単位で見なければならなくなる

●8月3日/3rd Aug
アメリカと中国とコロナと国連。主体と事実とフェイクと謀略が絡みまくっていて、何が何か分からなくなっていたが、事の全容が自分の中でようやく見え始める。
普通にニュースだけ見ていると全く関係性が見えてこないので、多くの人は物事を単純化して簡単にスタンスを決めてしまいがちだ。
それぞれが世論を誘導しようという補助線が何重にも重なっているので、色んなことを知った上で、状況を遠くから眺めて全体像を見ないと本当のところは見えないだろう。
全容が分かったところで本当のことは迂闊には書けないし、固定観念に満ちた人に話した所で信じるのも難しいだろう。ただ、この状況に抑えを利かす人がまだ生きている間はいいが、彼も歳なのでもうすぐ死にそうだ。そうなるとますます大荒れするかもしれない。

●8月3日/3rd Aug
拙速に答えを出して落とし所を決めようとする仕事のやり方は、おそらくこれからの世界ではもう通用しなくなるだろう。頭がなかなか切り替えられない企業ほど苦しむことになる。
なぜその仕事をやる必要があるのか、それをする事で誰の何が自由になるのか。そんな本質的な問いを立てるところから話を始めないと、仕事のための仕事をすることになる。そんな仕事ほど逆に無駄が多いという逆説的な状況の中で、今後どんどん余裕がなくなっていく。
自分の中でリアリティが持てないのに、適当な所で手を打つことや、想像力が欠如する故に自分のリアリティの範囲が狭めていることの積み重ねが今の社会を作ってきた。Bullshit jobから脱却して、自らのリアリティと責任の範囲で仕事をしていくことが必要な社会がもう来ている。

●8月5日/5th Aug
ある作家の本を読んでいて思った。自分が頭が良いと自負する人は、バカだとする人の質を見分けられないのではないか。何でもかんでもまとめてバカとしてしまうと、その中の差異や理由を見ようとしなくなるのかもしれない。バカなように見える人々は一様ではない。
もちろん社会の多くの人のモノの見方がどんどん狭くなってきていることには危機感を覚えているし、意図的にそんな社会が"頭の良い人"によって生み出された感覚も否めない。
だが一方で、バカを"物事が見えていないこと"だとすると、バカの質が見分けられない人もバカであるということもあり得るのではないか。バカとは人というより態度だとすると、頭の良い人でもバカな状態になるのはよくありそうだ。
だがバカなように"見える"態度が、無意識に人間の本質のある一旦を突いていることはよくあることだ。それに本当に頭の良い人は、自分が頭が良いというようには振る舞わない。むしろバカなように振る舞うことで周りをちゃんと観察しているのだと思うのだが。もちろんそんな人の数はものすごく少ないと思うが、一様にバカにしてタカをくくっていると、そういう人を見逃してしまう。

●8月7日/7th Aug

20世紀のアメリカのことが分かっていないと日本のことも世界のことも分からないのだが、日本のアカデミズムでは本当の意味でのアメリカンスタディーズが出来ない構図になっているのだな。さすが...

●8月10日/10th Aug
19時半ぐらいから、久々ライブ配信でもしてみようかと。特に何をテーマに話すとかではないですが、心おもむくままにぼちぼち話します。
結局、こんな話になりました。
もうちょっと突っ込んだ具体的内容も話したかったけど、公開映像なのでここらで止める。
https://www.youtube.com/watch?v=jymKQMPYUiA

●8月12日/12th Aug
プロジェクトを進める上で、クライアントが必ずしも正しいとは限らないし、そのプロジェクトにおける要件や課題が全て可視化されているわけでもないことはよくあることだ。クライアントも自らの願望や要望が言語化出来るとは限らないし、社会的な課題や今後の趨勢が読み切れていないこともある。そんな中でこれからの方向性や指針などに迷いがあるからこそ、一緒に条件を探していくことにデザイナーの役割の一つがある。
だが、プロジェクトの担当者から提示されたパラメータを処理するだけのデザインで、それ以上はしなくてもよいと固く信じている広告代理店と、その言いなりのデザイナー、それに気づかない担当者の間に入れられて、アドバイスして下さいと言われても何をディスカッションするというのだろうか。
拙著でも書いた記憶があるが、クリエイティビティとは与えられた条件の中で発揮されるのではなく、何を条件とするのかを発見する中で導かれるはずだ。そんなことを考えてきたわけでもないデザイナーが、狭い条件の中でレイアウトしたデザインを提示されても、そのクオリティの低さに言葉を失ってしまうばかりだ。ましてや広告代理店とクライアントがそんなことを考えたこともなく、全員がとにかく早々と落とし所を見つけて出来るだけ仕事したくないという「痴のエネルギー」が渦巻いているならば、その場を離れるしかない。仕事でこんなに傷ついたのは久しぶりだ。
クオリティが全く見えていないのに自らのアウトプットを信じ切っている者と、クオリティを知っているが故に拙速に答えを出さない者は同じ土俵で話が出来ない。モノを見る能力に非対称性がある場合、傷つくのはいつもモノが見えている側である。
だからダメになっていくなと分かっていたとしても、モノが見えている人が誰もいない場には関わるべきではないのだろう。頑なにまなざしを変えようとしない人々の前では、自分のまなざしを変えねばならない。プロジェクトにとっては残念ではあるが、その波動に巻き込まれてはいけない。

●8月14日/14th Aug
堺市文化芸術審議会の令和2年度第一回が終了。今日は委員長の横に着座して色々と発言する。堺市は「自由都市堺文化芸術まちづくり条例」が掲げられ、それに基づき文化芸術推進計画が立てられている。
条例とは基礎自治体にとって国における法律と同じ扱いとなる。だからそれを遵守しなければ法的に罰せられるのと同じぐらいの意味を本来は持つものである。だが文化芸術という領域が難しいのは、遵守することが一体何を意味するのかがはっきりとしないことが多いことだ。
だから判断の基準が分からないこともあり、こうした専門家による審議会を設けて議論し答申を出すことになる。
今日はコロナ以降で初めて開催された審議会。市民の傍聴も多かったので、具体的な事項の検討についての意見を述べる委員が多い中、僕自身は意識して少し抽象的な意義を発言することにした。
不要不急だと思われがちな芸術の役割について、今回の出来事は本質的な議論をするのに良い機会となるはずだ。経済活性化や観光、まちづくりに資する芸術という観点も必要かもしれないが、今一度私たちの人生や実存にとって、芸術がどのような意味を持ち、どのような役割を果たすのかを改めて確認する必要がある。
その上で公益性とは何か、それは収益性とどのように区別されるのか、そして様々な団体が要求してくる課題に対して、税金を投じてせねばならない必要性をどのように考えるのか。そんな本質的なことを議論せねばならない。
そんなことを語ったが、終了後に何人かの委員から、講義を聞いているようで大変勉強になったというご意見を賜る。だが反面、大学では学生たちにこんな話を聞かせる機会がないのを残念にも思う。
これまでの常識が反転する中で、これまで続けてきたことをこれからも続ける必要があるのかは問われねばならない。そのためには今こそ、そもそも論が必要なのだろう。コロナ前はそんな話に耳を傾ける人が少なかったが、最近は徐々に増えてきた。

●8月14日/14th Aug
表現者でいるには何かを強く信じねばならない。だが学者でいるには全てに疑いを立てねばならない。その両方に身を置いていると時々引き裂かれそうになることがある。

●8月15日/15th Aug
もはやほぼ確信を持ってはいるが、日本では意図的に"考えない人を生み出す仕組み"が、様々な領域で採用されている。政治や教育システムは言うまでもないが、この30年ほどの、経済システムや文化システムは思考力の低下に加担してきた。それが極まりつつある状況まできた。
そこにやってきたAIやスマホなどのテクノロジーは今や深く私たちの生活に入り込み、私たちの動機や思考を外からの情報で導こうとする。自分の内のアルゴリズムは、だんだん自分の外のアルゴリズムと連動し始めている。
この流れに身を任せていると、この先にどうなって行くのかに気づき始めた人も増え始めてはいるかもしれない。かつて「愚か者は世界を救うのか」という論考を書いたことがあるが、そこでは氷山に近づく豪華客船に今の世界をなぞらえた。
この船から降りて逃げ出す準備をしている人。船に残ってなんとかしようとする人。気づかずに船でパーティを続ける人。パーティ客に給仕を続ける人。そんな中で愚か者は甲板で爆竹を鳴らすと書いたが、今はもう爆竹を鳴らすことも必要無くなってしまったように思える。
愚か者は世界を救うのか
https://note.com/flwmoon/n/n3b781e68133b?fbclid=IwAR0MTXDbrPAZ2kuqZyTm9S2fVuQ1mNBavD2wWdwiY4l5_C7huNdROyp1Urw


●8月16日/16th Aug
ダーウィンの進化論で環境に対する遺伝子の適応と進化が関係づけられ、ドーキンスのミームで文化と進化が関係づけられた。それを踏まえた上でアインシュタイン以降の波動の世界観の中では、シェルドレイクの形態場の理論が、それらに相反するのではなく、延長線上に接続されることには妥当性があると思う。アカデミズムでは声高には言えないが、前々から密かにそう考えてきた。そんな意見がそろそろ少数では無くなっていそうだがどうだろう。
我々がデジタルなサルになったことで、次の進化の可能性が加速しているからこそ、どういうミームが広がるかが問題になる。
ただ昨今のコロナ現象とそれに対する人々の反応の違いを見ていると、ミームが複数に分かれていて、異なる周波数帯で進化が促される可能性の方が高いのではないかと。いよいよ世界は分裂していくのか。
今後、デジタルなサルの種としての進化は、自覚的で意図的なものになるとシャドボルトは言うが、そこでの自覚や意図は全体としての話か個人の話かの区別がない。ユング的に考えればその区別はさほど意味を持たないのかもしれないが、形態場の議論でも個人の考えが全体にフィードバックされていくので、やはりどちらも相関性があると言うことか。
ただもう少し拡張して捉えれば、やはりそのフィードバックの先がいくつかの形態場に分かれていくと考える方が妥当性があろう。
そう考えると、ますます仏陀のいう慈悲と六道輪廻の話がリアルに響いてくる。
一応忘れないように付け足しながらメモしておくが、後で何のことかさっぱり分からないということになるかも...

●8月16日/16th Aug
誰が安全性を決めるのかが問題ではあるが、広まってよい安全な研究と、知ってはならない研究がある。なので、ある研究をしていた人が事故で亡くなった連絡を受けた時に、よもや偶然とはとても。

●8月19日/19th Aug
可もなく不可もなく無難なアウトプットというのはニュートラルなのではなく、単に減点されないために出しているだけに過ぎない。
無駄なものを削ぎ落とすとか、抽象的に洗練させるとかではなく、単にエネルギー値が低いだけなのだ。シンプルと手抜きの区別をつけれない人が、クオリティを判断するとそれが通ってしまうことになる。
それで良いような仕事なら、そもそもやる必要のない仕事である。本当にやる意義や必要のある仕事などそんなに多くはないのだから。

●8月21日/21th Aug
5年前はダッカに居たのか。この狂騒の中で彼らはどうしているだろうか。次にいつ会えるだろうか。

●8月21日/21th Aug
バノンも逮捕されたか...

●8月25日/25th Aug
無常・苦・無我で、現代人にとって一番難しいのは「苦(dukkha)」の発見かもしれない。苦はいつでも誰にでもあるものなのだが、頭の良い人でもなかなかその意味が理解できない。
かつてディスカッションの流れで「あなたは苦を見つめようとしていないのではないか」という指摘をした時に、"あなたは苦労していない"というメッセージとして受け止められ、気を悪くされた覚えがある。
苦労人とか恵まれた人とかに関係なく、苦はいつでも誰の中にもある。一つの呼吸の中にもあり、苦から逃れてまた苦へ向かうグラデーションに過ぎない。

●8月27日/27th Aug
何をどこまで述べればいいのか、さじ加減が難しい。あまりに抽象的すぎると何のことか分からないし、あまりに具体的過ぎると抹殺か社会的抹殺となる。どうせ知っていることは全部は書けないし、考え方だけ示す適当なところで。

●8月27日/27th Aug
10歳になるまでの自分の世界の見方が正しいと気づいたのは40歳になった頃だった。10代では社会のあまりのおかしさに、自分が間違っているのではないかと疑った。20代では社会のことをまだよく分からなかったので、何が正しいとされているのかを貪るように求めた。ようやく色々と分かってきた30代で、やはり社会が狂っているのだと確信を得た。40代になる頃には社会どころか人類全体がそもそも狂っているのだとの結論に至った。だがそんなことを呟いているうちに、この社会で50代まで生きれるかどうかが怪しくなってきた。

●8月29日/29th Aug
20世紀の米国史についてはほとんど知らなかったが、これが分からないと世界秩序が全く理解できないことを改めて確認する。表に出ている95%の情報を理解していないと、表に出てこない5%の情報の意味や、なぜその情報が表に出てくるのかが理解できない。ただ学校ではついぞ米国史など習わない。
ニクソン大統領の時には僕はまだ生まれていないし、クリントン大統領あたりからしか記憶の中にはなかったが、ウィルソン大統領ぐらいから順番に調べて行きながら、相当闇が深いことを理解する。日本の首相の辞任含めて、米国のこの2週間ほどで色々と起こることに注目したい。

●8月29日/29th Aug
今、代官山の蔦屋でやってるJINSの本のフェアで拙著「まなざしのデザイン」が取り上げられているみたい。出版してもう3年経つのにありがたや。心より感謝。
https://twitter.com/ecila808/status/1298274017976004610?s=21&fbclid=IwAR0OAom2IbWVAUM1n34FMuMzM2lHLF90vRqvx5jQpKKzASKx7sQVfeQw6lc


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