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「世界の反転」(2020年1月)

●1月3日/1st Jan
2020年が来てしまったので、もう包み隠さず述べてしまおうと想う。この世界はもうどうにもならない。既に今の段階でいくら何をしようとしても、我々には未来がないのだ。だが、ここに至っても我々はまだ、これまで通りこのまま先があると思い込んでいる。ここまで生命のネットワークを壊してきて、何も無かったかのように、もう一度そのネットワークに入れてくれというのは虫が良すぎる話なのに。
人類は生まれた時から病気なのだ。それで数万年やってきたのだが、いよいよもうどうにもならない段階へ来ている。これまでに何度もメッセージは出されていたし、チャンスはあったはずだ。今世紀の10年ほどで潮目は完全に変わってしまった。それにも関わらず、まだテクノロジーやシステムで問題を解決できると思い込んでいる。そしてその信仰はますます強くなっている。この数千年間に我々を支配してきた宗教より、もっとたちの悪い洗脳に陥っている。
テクノロジーとシステムを生み出している我々の心こそが病んでいるのだ。そのことに気づかず、まだ解決すべき課題は自分の外側にあると思っている。その解決方法がどこか他所にあるだろうと探し求めているのだ。いや、探し求めるフリをして、実のところは五感からの刺激と際限なき妄想を満たそうとしているだけだと気付いていないのが大半だ。満たされるはずがないものを求めて、何度も何度も同じことを繰り返す罠にはまっている。そんなことを何千年繰り返すのだろうか。
自分が何を求めているのかも分からず、時間が来て人生を終える。そうやって人生を終えたら、全て終わりだと思っているが、死んで終われるぐらいこの宇宙の仕組みは単純ではない。エコロジーや社会の仕組みの問題など、真実のほんの一部に過ぎない。世界観を真逆にせねばならないと、これまであちこちで訴えては来たが、多くの人はその意味が分からないし、分かっても試してみる気もない。生命のカラクリに気づいた人間とそうでない人間が、今年には明確に分かれ始める。無論ここで述べていることは多くの人には単なる戯言だ。そうやって一笑すれば良いのだが、思い当たることがある人はきっと粛々と準備をするだろう。そうするとこれまで問題にしてきた全てのことは反転するはずだ。自分もまだ準備が十分に出来ていないので、今年こそ。一人でも多くの人々が、そして生きとし生けるものが幸せでありますように。

Now we have the year of 2020 finally. So I should confess everything I feel . This world is already going to final stage. We don’t have the future any more. However we think we have the future just as it has ever been. In spite that we destroyed the network of life, we ignore the fact and want to come back these network again.
Homo sapience is sick by nature. We spent several ten thousand years already, but at last in this stage we can’t help it. In our history, we had many messages and we got chances many times. And in this 10 years, the tide of this civilization got the turning point. However we are still dreaming that our wonderful technology and system will give perfect solution for this crisis. And this belief is getting stronger than religions which occupied our mind in this thousands years.
It is not technology and system. Our mind itself is sick. And this mind produce technology and system. We are blind for problems of ourselves and we are searching anything solving problems outside of ourselves. Not exactly, we are pretending to search something solutions and we are searching for stimulation to our five senses and delusions, to tell the truth. But we don’t know these truth or we excuse it. We are searching for something never satisfied our desire. And fall into the trap over and over again. How many thousand years we repeat it...
We will finish our life time without knowing the truth we are searching for. However the law of universe is not as simple as we can finish everything when we die.
The problem of ecology and social systems are only a part of truth. Until now, I have talked about we have to re-design our perspective totally different, but almost people don’t prepare it or don’t have intention to prepare it. From this year people will start to split their ways clearly. One is those who know the truth of life and the other is those who do not.
Of course it seems lie for many people. Everyone have the right to have laugh it. However some people who found themselves will start to prepare. At that time they will find the opposite truth that they had thought it was truth. I didn’t finish my preparation yet, so I have to do it this year. I pray all human being and living beings will be happy. 

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●1月5日/5th Jan
「権利というものは、人間が創作して語り合う物語の中にだけ存在する。」
「人間には生命や自由に対する自然権があるという物語は真実ではないものの、人々がこの物語を信じていたおかげで、独裁的な政権の力が抑えられ、少数派が危害から守られ、何十億もの人が貧困と暴力が招く最悪の結果を免れた。こうしてこの信念は、おそらく歴史上の他のどんな教義よりも人類の幸福と福祉に貢献した。
とはいえ、それは依然としてドグマだ。」
「検閲は何らかの自然の法則に違反すると信じるなら、私たちは人類についての真実が理解できていない。あなたが自分を「不可侵の自然権を持っている個人」と定義しているかぎり、自分が本当は何者なのかはわからないし、あなたの社会やあなた自身の心を形作った歴史的な力を理解できないだろう。」
「人権というドグマは、過去数百年間に、異端審問や旧制度、ナチス、KKKなどに対抗する武器として形作られた。だから、超人やサイボーグや超知能を持つコンピューターに対処する用意はないに等しい。人権運動は、宗教的偏見や暴君に対しては、見事なまでに豊富な反対論や防御策を練り上げてきたが、それらは過剰な大量消費やテクノロジー・ユートピアからはとても私たちを守れない。」

●1月5日/5th Jan
ぼくが他の人よりも少しだけ自由にモノを見ることが出来るとすれば、それは自分が無知であることを認めているからかもしれない。

●1月9日/9th Jan
本日は十日戎の初日。研究室のあるI-siteなんばの周辺は無数の人だかりで、出店もたくさん出ている。昔に比べるとこうしたイベントにも外国人観光客がたくさん来るようになっている。この風景に日本を感じているのだろうか。
縁日の出店の場合はちょっと事情が違うが、外国人観光客が大勢来ることによって、社会状況が変化し、それに応じて商売の形態を変えざるを得ない部分もある。地元の人が買わなくなるから外国人向けに商売を変えざるを得ない。そうなるとますます地元の人が離れていくループも生まれる。
一方で、外国人はそこで売られているものが、自国で食べられるもの、手に入るものであっても、日本の伝統的なものだと思うこともある。場合によっては、外国人観光客が日本で自分の国の素材を日本の伝統料理だと思って食べるなんてことも出てくるかもしれない。売っている方も、自分がこれまで扱ってきた業種と関係ないものを売ることもある。
部分的に見ると誰も間違ったことをしていないけど、全体で見るとおかしな風景になっていることもあるし、それが持続可能かどうかは一一考の余地があるのではないか。
Seeing diffrentlyの商店街編ではそんなことをテーマにした

●1月11日/11th Jan
量子力学において、電子の位置を測ってから速度を測ると、速度を測ってから位置を測った時とは違う状態になる。この量子の非可換性の中に我々が「時間」と呼ぶものの起源があるのではないかという議論がある。
一方で、量子からうんとスケールを上げてみると、我々が普通にまなざしを向けてモノや出来事のマクロな状態をアバウトに認識することで、ある特定の変数が選ばれ、それで時間の進展方向が決まる「熱時間」という考え方がある。
「このマクロな状態によって定められる時間と、量子の非可換性によって定められる熱時間は、同じ現象の別の側面である。」
カルロ・ロヴァッリがこう述べていることは、仏陀が唱えていたことに、ようやく現代科学の認識が追いついてきたことの証だと。
まなざしを向けることで「時間」は生まれるが、問題は我々がすべての物事にまなざしを向けれないことだ。だから絶対的な時間はあり得ないという結論に至るのは容易に考察できる。

●1月14日/14th Jan
本日は地域価値創造論の年初の講義。100名近い受講生だが、風邪とインフルエンザが流行っているせいか少な目だった。
これまで、哲学の原先生、実業家の谷垣先生と続けて頂いたが、今回からハナムラの担当回。やはり最初は「まなざしのデザイン」の話をする。
教育とは何を差し置いてもまずは"モノの見方"だと思う。特にこれからの教育では知識や情報よりも、それらをどうやって読み解き、組み立て、物事を把握するのかの方が重要になってくる。
今の教育体系は知識も情報も簡単には手に入らなかった時代に作られたものがベースになっている。しかし今や知識や情報は学生でも簡単に手に入るし、むしろ彼らの方が良く知っていることもある中では教育方法も修正しないといけない。
昨今の問題は情報が溢れかえりすぎて、もはやどれが正しくて、何がどこと関係しているのかが分からなくなっていることが問題だ。それを把握するためには、どういう視点や視座から物事を見て組み立てていくのかを学ばねばならない。
終了後のコメントシートを見てると、学生が聞きたがっているのもそういうことだということがよく伝わる。ハナムラのゼミに入りたいという書き込みもたくさん頂くが、配属が変わって来年からゼミ生が取れないので、別で私塾的に教育に携わることは少し考えてもよいかも。

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●1月16日/16th Jan
午前中は堺市文化芸術審議会へ。委員になってもう5年ぐらい経つが、その間に社会の状況も急速に変化し、僕自身の考えも大きく変わった。
当時、理想としていたことをもはや信じられなくなってしまったこともあるが、我々を取り巻く社会が予断を許さない状況になっている中で、文化という長いスパンで物事を考えねばならないこととの折り合いをどうつけるかのギャップに悩む。
芸術は何かのために行われるものではなく、それ自身が目的であるというお決まりのフレーズと、社会課題の解決に芸術が貢献せねばならないという、もう一方のお決まりのフレーズの間に、なぜ我々は芸術を必要とするのかという議論はいつも置き去りにされがちだ。
僕自身には答えは既に見えているが、人は自分が欲しい答えしか聞きたくないので、問われねば話さないようにしている。
本当のことを知りたいと思う人はそう多くはないのだ。

●1月17日/17th Jan
本日は京都外大で「スピリチュアルツーリズム」の講義。一コマだけお願いされて引き受けたが、こうした枠組みだと、結構危うい話も出来る。普段は大学ではあんまり話さない聖地の話や仏教の話などをする。
こんな枠組みで受講するだけあって、占いの話や前世の話、運命の話など質問が出てきて、少人数だがかなり学生の食い付きが良かった。彼らの疑問には、全て僕なりに科学的、論理的、感覚的な答えを持っている。それを順次答えていく。
2月に出す宗教学者の鎌田東二先生との対談本の話や、拙作「地球の告白」のスライドも見せながら、これから生きていくのにどのような態度を持てばいいのかなど話する。

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●1月19日/19th Jan
昨今盛んなディープテックに違和感を禁じ得ない。テクノロジーの方向性を決める哲学が根本的に間違っているからだ。
我々は生命のネットワークの中に生きていて、自然の一部をお借りしている。その意識を欠いたままでは何を積み上げてもうまくいかない。人間は他の生命から受け取る(というより奪い取る)一方で、他の生命に一体何を返しているのだろうか。そんな技術と文化に間接的にでも加担する一人の人間として自分も情けなく恥ずかしい想いが湧く。
今日はセンター試験の数学と理科。並んだ受験生たちを見ながら、哲学が狂った科学技術の教育体系の中に組み込まれていくのだろうかと虚しさを感じてしまう。せめて自分の講義では大切なことを伝えねば。

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●1月20日/20th Jan
包括的な視点とは、技術や政治経済のような個々の事物に焦点を合わせることではない。それぞれの現象の背後に潜む原理に目を向けることだ。
The holistic perspective means not to focus on individual matters like technology, economy or politics. It is that to see the principle behind of each phenomenon.

●1月20日/20th Jan
本日は経済学研究科の社会人大学院の修士論文の提出日。学生さんたちが最後の追い込みで忙しそうにする中、修士課程1年生の論文演習。
演習では、毎回一人に修論のテーマを発表してもらって、それをディスカッションと指導する。本日は"ホスピタリティ産業における人材育成"に関して。もちろん僕自身はこのホスピタリティマネジメント専門領域では全くの素人だ。今日も初見で学生のテーマと持ってきた先行研究をその場で読みとかねばならない。
でも論理的な思考さえ持っていれば、どんな分野でも論文は読み解けるのが基本だと伝えている。1時間ほど学生たちがディスカッションしている間に、僕は横で聞きながらそのトピックの関連論文をリサーチして、精読して、レジュメにまとめて、その次の1時間で解説する。
今日発表の学生の研究は、ホテルなどに代表されるホスピタリティ業界において、生産性向上と人材育成との関係について。おもてなしする産業だと人材育成が必要不可欠なことはわかっているが、グローバルチェーンのような大企業と違って中小企業では人材育成に力を注げる体力がないという課題にどう向き合うかというトピックだ。
学生が持ってきた先行研究では、経営者意識として、「人材育成はコストと考える企業」「より有効なサービス提供のために人材育成する企業」「長期的な視野で人材育成する企業」の三つに大別でき、最後の企業の育成に着目する。そういう企業は現場ですぐ使える技術研修などの直接的人材育成ではなく、働く環境やシステムの整備など間接的人材育成によって長く会社に留まるような配慮をするという。だからその際の目的変数として離職意思の有無と、離職しない要因を調べることで、育成効果を代弁させる指標にする。その時に社員から会社へどういうコミットメントが働いているのかに着目するという論旨展開をしている。コミットメントには「感情的」「計算的」「義務的」の三つがあり、中でも特に感情的コミットメントに着目して、その説明要因として「働きやすさ要因」「働きがい要因」「明確な目標」という3つから分析し、どの要因が効いているのかを考察する。
多くの学生はこんな感じの論理展開が抜き出せないので、精読のポイントが分からない。文章の中から本質的な部分を取り出して、その繋がりを一つずつ順を追って解説しながらトレーニングしていく。文章の字面を追って内容を理解した気になっているが、精読するということは、1段落ごとにかなり意識的に分析しながら読まないと分からない。普通の人はその訓練が出来ていないので、何となく読んだ気になるのだ。
しかし普段からその訓練をしておけば、ある意味で万能のハサミを手に入れることになる。どんなトピックでも読み解いていけるし、どこが穴かどうすればいいのかも正しく見えてくる。それがまなざしが育っていくことだろう。専門性を磨くことも大切だが、そうした普遍的に使える論理力を鍛えるのも大切。もちろんこうした論理性は実はアーティストにも不可欠で、ここ鍛えたら伸びるのにと思うアーティストも多々いる。

●1月22日/22th Jan
今日から数日間東京で過ごす。スケジュールが目一杯詰まっているが、出版の新規案件が多い。
直近では2月25日にぷねうま舎から出版される「ヒューマンスケールを超えて」の最終打ち合わせ。宗教学者の鎌田東二先生と3年にわたって紡いだ対話がようやく出る。
今の地球環境がこのままでは保たないことは皆がわかっている。ではその根本的な原因として何があり、どこを正す必要があるのか。そんな対話を宗教学とランドスケープデザインの立場から語る異色の本になったと思う。
先駆けて2月21日に東京でのブックストアイベントで著者二人でするトークを皮切りに、いくつかの都市で話出来ればと。

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●1月23日/23th Jan
東京をあちこちと彷徨う。この二日ほどでいくつかの企業を訪れて人と話をするが、規模が大きいほど制度疲労を感じざるを得ない。
そのうちのいくつかの企業にはブランディングに携わっているが、これから生き残るにはどういう経営思想を持つべきかを少しずつ差し込んでいる。
一人の個人として思考するとすんなり受け入れられる当たり前のことが、企業人として思考すると様々なノイズが正当化されて正しい思考が出来なくなる。そこを丁寧にほぐしながら、長尺で物事を見れるようにトレーニングを続けていると随分と顔が変わってくる。
いずれにせよ人は仮面をかぶって生きているのだが、自分がどんな仮面をかぶっているのかを確かめるには一度それを外さねばならない。しかし一度外せばまたかぶるとしてもかぶり方が変わっているはずだ。

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●1月24日/24th Jan
東京での全ての打ち合わせを終えてこれから関西へ戻る。具体的になってきた出版企画が何件かと、来月出版される本の打ち合わせ、デザイン案件、研究案件など、今回は全く隙間なく東京を走り回った。帰りの新幹線で本の最終校正と明日の修論審査の論文の精読、そしてそのまま夜は社会人大学院の講義へ向かう。時間は均等に流れていて、どこにいても何かをしている。だから本当は「忙しい」などという状態はないはずなのに、何故かドッと疲れるのは心が未熟だからだろう。
一方で、なぜこんなに忙しく仕事するのか。そんな問いも忘れていない。究極的にはどうしてもせねばならない大事な仕事など、そう多くはないのだ。自分以外の誰かを自由にするのが仕事だとすれば、自分の仕事は一体誰を楽にするのだろうか。直接目の前にいる人を助ける仕事に結びつかないこともある自分の仕事で、そのことを忘れてしまえば、なぜ忙しく仕事するのかの理由を見失ってしまう。
写真は東京駅構内の柱にあったACの広告。胸が痛む。水の問題は以前ブログにも挙げたが、また改めて論考にしていこうと。

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●1月25日/25th Jan
本日は終日、経済学研究科社会人大学院の修士論文の審査。提出から5日しかない間に5本の修士論文を読んで内容のチェックせねばならない。
東京出張で全く暇がなかったので、帰りの新幹線と昨夜から今朝にかけて全ページチェックして、赤入れして審査する。
口頭諮問では学生の皆さんが、それぞれ舌鋒を駆使して説明するが、本来は書かれて提出されたものが全て。読んで伝わらなかったということは、記述論述がなされていない、あるいは不十分であるということだ。厳しい言い方をすれば、口頭では何を言っても全部言い訳に過ぎない。
ただ社会人の難しいところは、こちらの指摘に対して素直に認められないところだ。それでも何を指摘されているのかを理解しようとする態度であれば問題ない。ただ単に自分が間違っていないことを主張するために防衛するモードになる人は、案の定、論文にも客観性がない傾向がある。
文字はたくさん並んでいるが、どれが客観的事実で、どれが考察や推測で、どれが自分の主張や願望なのかが渾然一体となっている。大体が自らの思い込みや主張で埋め尽くされているので、読んでいて論理性が破綻しがちだ。そういうタイプの方にはこちらが論理的に語りかけても通じないので、反対に防衛のために攻撃的な態度でかえしてくる傾向が強い。
人の頭の中は99%が想像力であり、それが事実の確認なのか、妄想なのか、事実に基づく考察なのかの区別は自覚的にならないと難しい。なおかつ人間は「自分が正しい」という出発点に立ちがちで、それが強過ぎると「自分を正す」ということが出来なくなる。社会で経験を積まれた方ほど自らの経験を全てだと信じがちだ。そのまなざしの固定化を外していくために教育があるのだが、素直さがない大人ほど難しい。認めてしまえば賢くなれるのだが。


●1月26日/26th Jan
我々に与えられたこの世界は、外側からではなく内側から見た世界である。自分たちの時間経験を理解する際には、自分たちがこの世界の内側にいるという認識が欠かせない。
一方で、自分たちがその中にいて、観察している世界の性質は、「外側から見た」世界のなかにある時間構造とは異なるものであり、それを混同したままなので一方向に進む時間の矢、つまり宇宙のエントロピーの増大が謎のように見える。だからビッグバンなどという単純な学説が出てくるのだろう。
では、自分の内側の時間経験から脱出することなど人間に出来るのだろうか。それに「解脱」という答えを出したのが仏陀だと考えている。
地上にいると太陽が回っているように見えるのは当たり前だ。地球の外側に視点を設定せねば地球が回っていることは実感できない。時間にも同じことが言える。「解脱」という言葉をよく当てはめたものだ。

「観察を行う際に自分たちの視点を無視することで失われるものにも注意を払う必要がある。科学がどんなに客観性を希求するにしても、この世界におけるわたしたちの経験が世界の内側からのものだということを忘れてはならない。わたしたちがこの世界に向ける視線は、すべて特殊な視点からのものなのだ。」Carlo Rovalli

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●1月30日/30th Jan
来週で終了する学部生の授業の毎回のコメントシートを整理する。80名のクラスで、14回分のレポートをこれまで出してもらった。例年それらを全て学生ごとに整理し直して、最後の講義で返してあげることにしている。
毎年かなりの手間で時間もかかるが、学生たちのことを考えると、この半期の間の自分の思考の積み重ねが理解出来ると思う。是非役立ててもらえれば幸い。

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