「自由意志という幻想」(2021年8月)
●8月4日/4th Aug
四国に行く機会は多かったが、聖地の調査をする機会は少なかったので、少しだけ三豊の方まで足を伸ばしてフィールドワークをする。
コロナ禍の中での調査で、色々と思うところは多い。この暑い中で、ほとんど誰も住んでいないような山の中の集落にも関わらず、マスクをつけて坂道を行き来する地元のご老人の姿に、何度も心が痛んだ。
20世紀に生産性という病気に人類が感染したとすれば、21世紀に我々が感染しているのは情報だ。情報という病気の方が人を死に追いやる時代なのだろう。
●8月4日/4th Aug
この情報戦争の中で、誰の言っていることを信じるのかは文字通り死活問題になっている。とりあえず大勢の言っていることを信じておけば何とかなる、という時代でないことだけは間違いない。
●8月6日/6th Aug
実のところ、社長が皆を食べさせてるのではなく、皆が社長を食べさせている方が本質的なのだろう。
●8月6日/6th Aug
本日、令和三年度の大阪府立大学学長顕彰を受賞致しました。学術研究に優れた業績を挙げた研究者に与えられる賞で、賞牌を賜り光栄です。
受賞するのは今回で四度目ですが、本年で大阪府立大学としての顕彰は最後になります。過去三代の学長より頂く名誉に預かり心より感謝。
54名の受賞者のうち文系研究者がたったの2名で、ほとんどが理系の研究者。経済学研究科として頂くのはこれで最後だと思うと感無量。
●8月8日/8th Aug
近い将来、我々が求めても得られないものに「孤独」が追加される。全てがオンラインに繋がれる社会はほぼ実現されており、そこでの監視からは何をしようと逃れることはできなくなる。
我々は常にまなざしを向けられ続ける存在になり、誰からもまなざしを向けられない自由は手に入らないか、一部の特権を持つ人々の最高の贅沢になるだろう。
まなざしの戦争は既に始まっている。だが多くの人はそれには気づかないどころか、意味を理解していないので、むしろ歓迎すらしているように見える。詳細を書くスペースはないので少しだけになるが、次の本のテーマに含めている。
●8月9日/9th Aug
スキナーとブッダとでは比較にはならないが、一応考察しておこうかと。動物の行動から人間の社会的行動と進化に関する理論をいくつも打ち立てた心理学者のスキナーは、徹底的な行動主義の立場を取っていた。行動主義においては主観は徹底的に排除される。条件づけによって私たちの行動はいかようにでも導けることを主張し、私たちの行動を修正し、制御する行動工学が展開される。
そこでは、私たちは魂を持った存在ではなく、他の動物たちと同様に環境からの刺激に応じて行動する存在に過ぎない。我々が自由意志という幻想を持つのは、環境と行動との因果関係が明らかになっていないからであり、その無知に対してまなざしを向けたくないからである。スキナーはそう考えていた。
そして、そんな人間の無知を、自由と尊厳を持った魂という概念で覆い隠そうとすることを批判した。それはある意味で、一切の神秘主義を排除するような科学的な態度のように映るかもしれない。だが、スキナーより2000年以上も前に、それらの考察をとっくに終えていたブッダは、それを軽々と飛び越えたより広い視野の科学を提示している。
今のグーグルやフェイスブックがしているように、我々の生活全てをデータに変換し、その因果関係を解き明かし、我々の行動を修正しようとする試みは、スキナーの冷徹な行動エンジニアリングをさらに進めたものに過ぎない。それは、より大きな因果関係を考慮していない浅薄な科学なので、どこかで破綻をきたすように思われる。生命というのはそう単純なものではないのだ。
●8月11日/11th Aug
見てなさい。知ったかぶりの大人たちは何も気づかずに、社会をめちゃくちゃにしようとしているが、子供たちの中にはそのおかしさに気づき、まともな考えを持つ者が必ず現れるだろうから。その時に我々が彼ら彼女らをちゃんと見分けてしっかりと応援できるかどうかの方が大事だ。
●8月12日/12th Aug
自分の動機としては、何かを信じることや、どこかに帰属することを求めているわけではなく、ほとんどの場合は単に観察しているだけだ。だから価値判断を求められたり、同意を求められるとたまに苦しくなることがある。
価値判断など、ある時代のある場所における、ある立場から下される相対的なものに過ぎないので、状況や定義によって答えは変わると思っているからだろう。それに人間が下す価値判断の動機には、それほどバリエーションもないし、大体が間違っているので、それほど関心が持てないと言うこともある。
だから求められる時には状況に応じて同意したりしなかったりするが、観察をずっと続けながら色んな物事の底が見えると、世界のことにも人間のことにもさほど関心がなくなってしまう。本当に知りたいのはそこではないのだ。それが不遜に映ったり、冷徹に映ったり、理解されなかったりすることは仕方ない。だが慈悲だけは持ち続けていたい。
●8月13日/13th Aug
SNSが思春期の子供に対して及ぼす影響は、我々大人が予想する以上に大きいと思われる。発達心理学者のロバート・ギーガンが思春期の経験について「「他の人の好み」という文脈から切り離された自己は存在しない」と述べているように、発達段階の若者は社会からのまなざしの中で自己を定義しがちだからだ。
だが問題は、今や思春期の子供だけではなく、大人も同じ状況に陥っていることでないかと。現代の最大の問題の一つにアイデンティティ問題があると考えているが、道具やテクノロジーによって我々の内面は容易く変化してしまう。たかが道具だと甘く考えていると、それによって実存が導かれることは多分にあるのだと。
●8月14日/14th Aug
ハンナ・アーレントは「全体主義の起源」において、個人であることに挫折した人々が、いかに全体主義のイデオロギーを信奉するに至ったのかを探求した。
そこでは、恐ろしい全体主義の炎を燃え上がらせたのは、自分は無価値な消耗品で、政治的に孤立していて孤独である、という個人の思いであり、「誰も信じられず、頼れるものもない世界での最後の支援」として全体主義を捉えた、と論じられている。
それから60年ほど経った現在の欧米において、民主主義への愛着が弱まっているというピュー研究所の2017年の調査があるという。ほぼ40年にわたる新自由主義の政策とその結果として生まれた潮流は、人々の経済的格差を生み社会的正義の価値観を徹底的に脅かした。
そのタイミングで21世紀に入ってビッグテックによる監視資本主義が台頭した。彼らは民主主義を装いながら人々の行動や経験、思考を搾取し続け、埋めようのない情報的格差を生み続けている。もはや我々はこの格差を埋めようとも、埋めれるとも思わないだろう。そして次に何が来るかは予想できるはず。
●8月15日/15th Aug
フェイクニュースと呼ばれるものを考える上で、1930年の「キャッスル事件」は非常に示唆的だ。裁判で決着がついた疑惑であったとしても、それは世論として決着がつかないことがあるからだ。
1930年のロンドン海軍軍縮会議について、日本海軍は自国の重巡洋艦保有量を「対英米七割」にすることを強く主張し、当時の朝日新聞、東京日日新聞、時事新報などは、それを支持する報道を行なっていた。
それが日本政府の妥協案受け入れと同時に、各社報道のトーンが急に変わった。その理由として、当時の駐日アメリカ大使ウィリアム・R・キャッスルが、主要新聞の要人を買収する工作を行ったのではないかという報道がなされた。
後ほど、その報道は右翼系人物らによって流されたデマだとされ、新聞社側は訴えることになる。最終的には新聞社側が勝訴したのだが、世間的にはそれがデマではなく、本当に裏側で何かあったのではないかという疑惑が残ったというものだ。
90年前と比べて、現代はメディアが入り乱れており、情報の発信者はマスメディア以外にも、我々も含めて無数に存在する。何が真実であるのかを判定するのは、極めて難しい状況であることは理解せねばならないだろう。
ポスト真実時代というのは、正しい真実が歪曲される情報崩壊ではなく、あいまいな出来事をどのように解釈するのかという情報構築にこそ特徴がある。このような文脈では全てはフェイクニュースと言えるかもしれないが、次の本ではトランプ大統領を巡ってそのことには触れた。
●8月18日/18th Aug
大雨の中で現場監理に。今日はランドスケープの現場打ち合わせだが、建物内で雨の日にしか確認できない場所があるので、タイミングがうまくあった。
外構ではデザイン上で新規樹木が来る場所に立派な既存樹木がいる箇所がいくつかあったので、植栽のピッチを変えることで対応。その他、予算オーバーしている箇所をいくつか調整。
大事な役木を植えたい箇所に建物からのコンクリート基礎が出てくる難所が一つ。現場でベストソリューションを思いついたので、共有して進めてもらうようにする。
一番心配な場所での仕上げに不安は残るが、この雨の中で確認出来たこともあり、後はもうやってみるしかないと腹をくくる。
予定より早めに打ち合わせが終わったので、少し確認したいことがあり、美術館へ。前回ここに来た時には取材受けながらでメディアのカメラがずっと一緒だったので、ゆっくり見れなかった。今回は突然の来訪だが、快く案内してもらいながら回れた。
帰りのインターでバッタリと越前屋俵太さんとすれ違い、お互いこんな所でと挨拶する。すごい偶然だなと思っていたら案の定、空には鮮やかな虹が。素敵なティンクトゥーラに包まれながらの帰り道。
●8月20日/20th Aug
我々は自分の知っていること、理解できることだけを見つめて大層に論じる。だがこの宇宙には我々が知っていることよりも、知らないことの方が遥かに多いのだ。
我々は何かを知った気でいるが、一体何を知っているというのだろうか。知っていると思い込んでいるものであっても、実のところ何も理解してはいないのだ。
知っていることだけを見つめると傲慢が育つが、知らないことを見つめると謙虚になれる。本当に物事が見え始めるのは、そこからなのだろう。
●8月20日/20th Aug
ジジェクが言うところの、民主的に蜂起する人々が決して自由民主主義に辿り着かないのは、本質的に何かが欠けているからではないか。
それはアキレスが亀にどんどん近づき、フィボナッチ螺旋がどんどん黄金螺旋に迫っていくように、一見近似的な状態には見えるかもしれない。
だが最後の差は決して埋まることはないのだろう。0.999999...と永遠に描き続けることは出来るが、それは決して1にはならないのだから。
●8月21日/21th Aug
ちょうど今「フジロック」が開催されている最中だからということではないが、少しだけ一息つける時間が出来たので、敬愛する能勢伊勢雄さんより、ご謹呈頂いていた「vanity records」 の記録をまとめた本に、ようやく目を通す。
1978年に阿木譲氏が立ち上げたvanity recordsは、無名だが才能を持ったアーティストにレコード制作する機会を設け、より広範囲な音楽表現を追求する目的で発足されたレーベルだ。当時の「ロックマガジン」と連動しながら、多数のアーティストの作品がリリースされたとのことだ。
リアルタイムにこのレーベルに出会うことはなかったし、能勢さんから送ってもらうまで、その存在すら全く知らなかった。というより、これまでの自分自身の人生で音楽表現に携わっていた20代の頃に機会はたっぷりあったにも関わらず、なぜか音楽ジャンルとしてのロックには、全く関心を持てなかったこともある。
ただ、ここのところ能勢さんの手ほどきのおかげで、管弦楽が主流だった産業革命前の音楽が、なぜノイズミュージックやエレクトリックサウンドを中心にした21世紀の音楽に至ったのか、そしてその道程で音楽表現が社会動向と関連しながら、いかに多様に展開されてきたのかについて、考える機会が多くなった。
ロックやエレクトリックサウンドを中心に、近現代から20世紀後半の芸術表現としての音楽の流れは展開されるのに、それについての知識は自分の中ですっぽりと抜けていた。リアルタイムで身体が感じてきたことではないので、どうしても頭が中心にはなるが、それでも抜けていたピースが少しづつ集まりつつある。そんな中で分かってきたのは、色んな芸術表現の中で、時代を感じ取るセンサーが一番敏感なのは音楽かもしれないということ。
この本の中には、時代が異なる能勢さんの論考が二箇所あるが、どちらも音楽表現が時代をどのように読み取り、人間の実存や社会の思想とどう関係しているのかが、鋭くかつ幅広く紐解かれている。
我々にとって音楽を聴くという体験が一体いかなる意味を持つのかは、単に情動的な側面や、末梢神経の刺激としての消費的な側面だけでは語り尽くせない。先日にご謹呈頂いたパソコンとジッピーの話題でもテクノロジーが我々の実存や社会のあり方に及ぼす影響について読み解かれているが、それとパラレルな論考になっている。
特にパンデミック以降、音楽が何を時代に読み取っているのかについては、僕自身も非常に関心のある所だ。自分がリアルタイムに記憶していることでは、90年代にジャミロクワイがメジャーシーンに出てきた頃には、地球環境問題が台頭していた。
その頃に地球環境問題への関心からランドスケープデザインへと進んだ自分としては、ジェイケイのメッセージに随分と共感したものだが、同時に、その後あっという間に消費社会に取り込まれて行ったことに一抹の虚しさも覚えたものだ。
パンデミック前の10年ほどは、格差が開く社会や分断が埋まらなくなる状況からの逃避として、80年代のシティポップシーンが再評価されたヴェイパーウェーブという潮流が生まれている。当時はその意味が理解できずに、なぜ今さらこの時代が召喚されているのかを訝しがっていた。だが、あれはどうにもならないぐらいまで膨らんだ問題から目を背ける態度の現れだったのかと、能勢さんの論考で納得した。
ではパンデミック後の音楽には一体何がやってくるのだろうか。現在真っ只中のフジロックでその潮流が感じられるとはまるで思えないが、おそらく世界のどこかでは、時代の次を敏感に感じとって表現し始めている動きがあるだろう。
それがいつか牙を抜かれた形でメジャーシーンに登場する頃には、すっかりと消費に取り込まれているため、もう時代はそこではない方向へと向かっているのかもしれない。こうして音楽というフィルターを通じて、社会を見つめることの大事さを毎回伝えてくれる、能勢さんに心より感謝。
●8月24日/24th Aug
結局は自分の中での違和感を見つめ続けて、それがストンと腑に落ちた時に物事の答えがやってくるだけなのだろう。相手や状況をどうにかしようとしている間は、うまくいかない。
武道や芸事でも同じで、相手を投げようという意図や上手く描きたいという念を捨てて、自らの感覚をリアルタイムにモニタリングしていると、おのずと導かれていくことが多い。
●8月25日/25th Aug
ナイーブに生きる若者たちは何を求めているのか。そんなことを知ろうとしても、無駄なことなど理解している。きっと本人たちでさえわかっていないのだから。繊細すぎてそのままでは生きていけない存在。こんなに自由があるのに追い詰められていて、何も踏み出せない状態。ためらいながら吐き出す冷静な言葉。うつむきながら周りをうかがう表情。ゆっくりとしているが落ち着かない仕草。優しさのように見えて、エゴのように見えて、苦しんでいるように見えて、諦めているように見える。この街で生きていくためには、その決まりに従うしかないのかも知れない。そうやって僕らのような大人になっていくのだろうか。つまらなく見える大人たちだって、最初からそうだったわけじゃない。いや、今でも本当は泣き出したい人しかいない。理屈ばかり並べては強がっているが、心に年齢などないのだよ。よく観察してみるといい。端々に緊張と恐れを感じるだろう。それを悟られぬように、ほんの少し嘘をつくのがただ上手なだけなのだから。ナイーブさに潰されてしまわぬように、嘘をつき続けていると、いつか、いつのまにかそうなってしまう。君たちはそうならぬように、その繊細さを失ってはいけない。僕に出来ることはこうして詩を紡ぐことぐらいしか今はないのだが、それでも君たちの幸せを願っている。
●8月27日/27th Aug
「市民がよく読み、よく議論すれば、正しく問題を理解できる。「表現の自由」はそうした市民的公共性の理想型に依拠している。そうした理想を知識階級の幻想だと退けたのがヒトラーだったことを想起したい。ヒトラー神話というメディア流言は、私たちに歴史の語り口の問題を突きつけている。ナチズムに関する歴史叙述では、(ファシズム、戦争などを)「許すことはできない」、(自由、平和などを)「守りぬかねばならない」、といった規律=訓練の話法が多用される。しかし、この話法はそもそもファシストの語り口ではなかったか。必要なのはファシストの話法によらないファシズムの語りであり、反ファシズム的(ファシストの裏返し)ではない非ファシズム的な解釈なのである。その意味で、ヒトラー神話は道徳的に断罪して済むものではなく、それを知的に理解することが求められている。これはあらゆるメディア流言についても言えることではないだろうか。」
●8月28日/28th Aug
ゲーテのことを考えていたからか、本棚からたまたま手に取った全くジャンルの違う二冊が、驚くほど近しいテーマだったので、己の無意識に恐れ慄く。
生命を生命足らしめているものは何かというのは僕の考える「生命表象学」の中心的なテーマではあるが、まなざしとの関係が三木先生の言葉の中に要約されている。
「自然を眺める人間の眼には二種が区別される。そのひとつは、"かたち"に向かうものであり、他のひとつは"しくみ"に向かうものである。われわれはこのいわば左右の眼の使い分けによって、ひとつものが、ある時は生きたものとなり、ある時は死んだものとなる。前者を"こころの眼"と呼び、後者を"あたまの眼"と呼ぶ。」
●8月29日/29th Aug
葡萄農園で収穫のお手伝い。自家製の葡萄を育てるために趣味で始められたそうだが、2年でここまで出来ることに驚いた。学生の頃に農学部の演習で葡萄のジベレリン処理をしたことはあったが、収穫は初めてなので色々と勉強になる。
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