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夢を再び。ファシリテーションルーム1

 エレベーターを降り、いつもの事務所の前を通り過ぎて、灰原は、さらに奥にある部屋のガラス扉を勢いを殺しつつ押し開けた。ノックなどしない。中の様子は伺える、それにそこは随分と使われていない会議室だ。会議室というより企画室といっても良かった。部屋の奥は窓になっている。明るく開放的な雰囲気にみな闊達に意見を出し合っていた、そう、かつては。

 その窓側は小会議室と称して部屋の中にさらにパーテーションで区切られたスペースが設けられている。上部はすりガラスになっていて圧迫感はない。応接ソファーが置かれており、企画が詰み込んだときは、代わるがわる仮眠をとった。そう、そんなわずかな休息だけでかろうじて体力を補いつつ、みなぎる気力に付き合っている、そんな戦士たちの集う場所だった。
 
そんな部屋に、灰原のデスクが置かれたのである。
 
「場ちがいにもほどがある」

 灰原という名前ほど、自分に似つかわしい名前はないと思っていた。どんなに盛り上がっている意見であっても、心に湧き上がった不安を抑えきれず、墨滴のようにぽとりと落としてしまう。原っぱでピクニックをしようと、白い雲たちがいろんなアイデアを携えて空に浮かんでくる。そこに、一滴、灰原がひとこと発するとみるみる灰色が濃くなり、草原にも陰りが生じる。雨が降りださんばかりの頃には、プロジェクトは消滅していた。
 
 しかし、すべてが消滅したわけではない。灰原は、まぶしそうに窓の外に目をやった。スタジアムが見える。そこで開催される野球のゲームでは7回の開始前に必ず風船が飛ばすことになっていた。このスタジアム名物の観客総参加型の観客によるショータイムだ。勝っていても負けていても関係ない。
 
 今、ここ、観客席に座っている観客自身とそのまわりの観客達。いや、そのときばかりは観客ではない、主役である。いっせいに一人一人が風船を手にして息を吹き込む。
 
   わずかな時間だ。一人ひとつ。皆の呼気でいっぱいになった風船は、そのスタジアムをホームとする野球チームの合唱歌を歌い上げ、スタジアムから覗く空に向かって、高く高く腕を伸ばし、パッと手を開く。すると音をたてながら、時に曲がりながらも空を舞う。スタジアムの空が、色とりどりの雲にも似た風船でいっぱいになる瞬間だ。風船は高度をあげるごとに小さく萎んでいくが、かわりに一人一人の胸が大きく膨らんでゆく。

  小さな子供でも、ひとりで膨らますことができるゴムの伸び、十分にスタジアム高く舞い上がれるだけの空気をいれることのできるサイズ、万にひとつ、いやスタジアム4万7400人にひとり分でも不良があってはいけない。
  灰原は、思いつくだけのリスク、そのほとんどは杞憂であったが、を皆に投げかけたが、それをも凌ぐアイデアと工夫で、スタジアムの名物となる製品が生み出された。誇らしかった。そして眩しかった。そんな製品を形にしていった同僚達、そして、その夢を語り皆に夢を現実に見せてくれた課長が。
 
しかし、なぜ私がこの部屋に。
 
  飛沫と接触による感染症がこの国を襲ってからというもの、名物であったわが社のジェット風船は、諸悪の根源と言わんばかりに、そうそうに使用中止となった。マスクで呼気を封じ込めるように、呼気を取り込む風船は封じられてしまったのだ。スタジアムに限らず、イベントの企画品までもが軒並み頓挫し気落ちした皆の気持ちを表すようにこの部屋に明かりが灯ることはなく足を踏み入れるものはいなくなってしまった。ただ、ひとり、窓からの柔らかな日差しが差し込む応接ソファーで、寝ているのか、何かを考えているのか、瞼を閉じて静かに体を沈めるコニシ課長を除いては。

 「はぁ、。また、あなたは何しているんですか。」

 灰原は、ソファーに横たわる課長に気がつき声をかける。すると、瞼をそっと上げてこちらをちらっと見た後、指を口にあてその言葉を制止するようなポーズをとった。すると、ガラス扉の向こうから、ふいに騒がしい声がして、重いガラス扉が開かれた。

 ここは、ファシリテーションルーム。

 だれもが好きに立ち寄って、アイデアを記してかえっていい。そのアイデアを持ち帰り膨らませ、また持ち寄るもよし。どんなアイデアだっておいていっていい。必ず、だれかが見ます。否定はしない。だが、感じて自分に浮かんだアイデアなら、それもまたおいていっていい。
 
そこから共鳴がはじまる。
 
 それを観察してほしい、そのアイデアはどんな思いからでてきたのか。思いの源泉をできるだけ純化してほしい。それが輝けば、目指すべき場所がきっと見えてくる。目指す場所が決まれば、そこに向かうための方法はいくらだってあるし走り出す。

 方向を確認する場所、それがここだ。

そんなコンセプトが与えられた部屋にさっそく訪れた社員がいた。
 
 やはり、場違いだ。灰原はこの場所から消えてしまいたい、そう思った。



なんのはなしですか


#なんのはなしですか #小説のような前振り #プロジェクト始動

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