今日から君も"厄介"に!
ありきたりな言葉ですが、世の中光に照らされる場所があれば陰る場所もあるわけです。
山のように成功体験談があれば、それより数は少ないにしてしても失敗体験談も転がっています。何てったってそれらは表裏一体なのですから。
さて、Twitterやらブログやらのツールの普及に伴い自分の感想・意見を公にするハードルが下がってから、長いこと経ちました。
どうせ見られることがないだろうと安易に指を動かした文章が読まれているかもしれない時代ですね。
とはいえ、こういうことは止めておいた方がよいのではないかとご本人からご指摘をいただく経験は、そうそうないのではないでしょうか。
加えて、それをこの際公にしてしまえという厚顔無恥な人間もそういないかもしれません。
というわけで、こんなふうにエンタメを楽しむのはやめた方がいいかもねという失敗談をお届けします。
こうはなるまいという負のエネルギーでもって、みなさまのエンタメを楽しむ活力になれたら幸いです。
なお、タイトルの「厄介」とは私が自分を省みた時に当てはめた言葉であり、QuizKnockの方々が類似の言葉含め発したわけでは決してありません。
経緯
ここのところ、QuizKnock(以下QKとする)にはまっている。
QKとは「エンタメと知を融合させたメディア」とのことで、私の主観では主にクイズ(とたまにしりとり)をツールにいっぱい面白そうなことをやっている人たちだ。
いっぱいと言うのも、ちょっと幅がありすぎてうまく説明ができないからなのだけど。例を挙げると
・0文字の問題文からクイズを解いたり
・RSA暗号を解読しようとしてみたり
・偉人をテーマにカクテルを創作してみたり
知識ってあると楽しいんだろうなぁと思わされることをしている。
まとめると、一家に一台あるとちょっと幸せになれるような存在。なのかもしれない。少なくとも今の私はそう思っている。
そんなQKのメンバーの方々にお話を聞いてブログを書こうよという「QK REPORT」なるイベントが、先日開かれた。
どうやら事前に送った質問内容からも答えてもらえるらしい。事実に反していたため具体的な内容は控えるが、私は動画内での言葉尻を捉えその変化に意味があるのかという質問を送っていた。
イベント自体は終始和やかに恙なく終わり、私も大部分はにこにこ見ていた。
その中で「超超個人的なことを答えるね」と私の質問を拾っていただいたので、その反省を綴ることにする。
答えてくださるのは勿論、指摘していただけるというのはこの年にもなるとほんっとうに貴重なことで、感謝の念に堪えない。
一方で、自業自得なのだがせっかくの機会なのに文章として頭に入ってくることはなく、単語単語を耳にしては青ざめて赤面してを繰り返し燃え尽きたことだけは申し添えておく。こんな経験をする人が減ることを切に願う。
今日から君も厄介に!
1. 事実確認を怠る
最も直接的な原因はこれ。
具体的には、こんな風に言っていたなという初見の感想とその後1度だけとったメモのみをもとに質問を考えていた。
その結果、そのようなことはないとの返答に加え、私の解釈は主語が違っているというご指摘を受けた。
聞き直してなるほどと思っている。恥ずかしい限り。
ここから言えるのは、最低限のチェックを欠かすべきではないということだ。
今回の例だと、言っている内容を何回か聞き直す。本当にこの解釈でも良いのか自分を疑う。だって胸を張って言うことじゃないが、これまでの試験でケアレスミスをしなかったことはないじゃないか、私。
話を拡張させると、誰かに何かを尋ねる際は自分で確認できる限りを確認すべきである。半年ROMれって先人も言ってた。
2. 相手に届く可能性を考えない
ではなぜ、きちんと確認しなかったのだろう。
失礼なことに、無数に送られる質問すべてに目を通すわけではないだろうと高を括っていた。仮に目を通したとしても、トンチンカンな質問は「何言ってんだw」でスルーされるものだと思い込んでいた。だって私ならそうするだろうから。
とんでもない。
回答の冒頭で「結構見直したんですよこれ、俺そんなこと言ってる?と思って」と話されている。
自分の確認不足への恥ずかしさに加えて、あの伊沢さんにそこまでさせたのかと気が遠くなりそうだった。なおこの辺りから青ざめて、当日その場では話の内容が頭に入っていない。
3.余計な憶測をする
当然、発信されるものは一部だから余白が見える。
動画内のカットされたシーンとか。動画外で起こっているかもしれないこととか。
余白には「かもしれない」の想像の余地が生まれ得る。こうなのかな、ああなのかなと想像を膨らませることは結構楽しい。想像はいくらでも広げられる、いい意味でも悪い意味でも。
だからといって、想像を広げすぎるべきではなかった。ましてやそれをご本人にぶつけるなんて。
伊沢さんからのアドバイス。胸に留めます。
4. 相手をわかったつもりになる
憶測を広げた結果どうなるか。
最後に1番堪えた文を引用させてほしい。
ここ数年は、下手したら同期の顔より見ることが多い画面の向こうの人たちだった。
その身近さに釣られてついどこかで、私ならこう感じるから彼らもきっとこう感じているだろうと思い込んでいたのだろう。今回の相手に届くと思っていなかったあたりも、まさにそうだ。
動画内で語られていることに加え話されていないことに関しても想像で補って、きっとそうだろうと最終的にはそうに違いないと誤った確信をして。確かにそれを人は妄想という。
相手は私ではないし、だから相手のことなどわかるはずがないのだから。わかったと思っている時点で、それは妄想の域に達しているのかもしれない。
まとめ
今回の一件で痛感したことをまとめると、以下の2点です。
わかろうとする適切な努力をする
ここまで書いてなお、相手の世界をわかろうとする姿勢自体は否定したくないとも思います。軌道修正をかけながら、わかろうと努力をし続ける人間でありたいです、何に関しても。
しかしそれは、明確に表現されていることのみに即してわかろうとすべきでしょう。言われていないことを読み取らない、余計な憶測は挟まないようにしたいですね。
完全にわかることは決してできない
矛盾するようですが、わかろうと努力しつつ、でもその際にはどんなに頑張っても完全にわかってはいないはずだという点にも自覚的でありたいと感じます。
だって、身近な友人家族ですらわからないのに画面の向こうの人のことをわかると思うのは、それは傲慢というものでしょうから。
この辺りを放置して自分よがりな楽しみ方をしていると、あんなに恥を知ったはずなのになおこんな文章を臆面もなく出すような人間になってしまいます。怖いね。
みなさまの素敵なエンタメライフをお祈りしております。
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