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ただの冷やし中華じゃなくて

8/8(日)に放送されたザ・ノンフィクション「笑顔で生きよう~お母さんと僕の約束~」の録画を見た。

料理研究家の高木ゑみさんは、離婚後8才の息子さんと2人で暮らしていた。2020年の秋、腰が痛くて病院に行くと、肺がんが脳や骨にも転移していて、ステージⅣと告げられる。だが、ゑみさんは告知からわずか2日で病気を開示し、治療での入院中もSNSで配信を続ける。退院後は新たにオンラインサロンや商品開発に取り組むなど、積極的に生きるという自分の姿を見せ続けていた。

治療が功を奏して、快方に向かいかけていると思われた矢先、容体が急変する。詳しい検査のための入院中に肺炎にかかり、最期の数日は家族に囲まれて過ごしてから旅立った。ゑみさんが最期にやりたかったことが「息子さんと一緒にお風呂に入ること」で、病院のお風呂で酸素マスクをつけながら一緒に入っている写真が紹介されていた。

常に笑顔で、家族や友人や料理教室のメンバーさんたちに励まされ、愛されていたゑみさんが亡くなったのは今年の3月末。発覚から4か月で、35歳というのはあまりにも早すぎる死だ。

自分が子どものときに母を亡くしているから、息子さんの気持ちは痛いほど想像できた。母親がいなくなるなんておそろしくて想像もつかないから、つきあげてくる不安がなんなのかよくわからない。いつか元の生活に戻れると漠然と思っているけれど、どこかでもう以前の生活には戻れないんじゃないかとも感じている。亡くなった後は、もう母がいないということの実感がわかず、しばらくがらんどうになったような気持ちで過ごす。

ゑみさんの息子さんは、おばあちゃんや別れた実のお父さん、おじさんおばさんいとこなど、たくさんの家族がそばにいたけれど、それでも大好きなおかあさんを失うことは、世界がぐらぐらと揺れる大きな体験だったろうと思う。


ゑみさんが告知を受けた時期は、私が乳がんステージⅢの告知を受けたときとほとんど同じ時期だった。その頃、自分はどうやって過ごしていたのだろう……。番組をみながら記憶を探る。

検診を受けた日から今日で9か月目。そのときの気持ちはぼんやりとしていてすごく遠くのことのように思えてくる。noteに残している文章を読むと「ああ、自分はこんなこと思っていたんだな」ということがわかるので、雑な文でも書き残しておいてよかったと思う。

乳がんとわかってから最初の数か月は、食事、睡眠時間、体温をあげるための入浴、ウォーキング、朝日を浴びるなど、すごく気をつけて過ごしていた。身体のためによいことをと思うがゆえ、かなり肩に力が入っていたかもしれない。

だが、抗がん剤の治療が始まってからは吐き気や脱毛や関節痛などの副作用を言い訳にして、そういったことにぱったりを気を使わなくなってしまった。とにかく治療を乗り切ろう。それまでは、あんまりがんばらないようにしようと思ったからだ。

化学療法が終わって、放射線治療が始まってからも「治療が終わるまではゆっくり」ということを言い訳にして、「よく生きる」ことから少し逃げている気がしている。

「よく生きる」というのは、今、本当にやりたいことをやることだ。

ペシミスティックな意味ではなく、残りの時間が限られているかもしれないなかで、本当に自分は目のまえのそれをやりたいのかということを、改めて自分に深く問い直したいと思う。

番組を見終わって少しした後、キッチンで次男(19才)が鍋にお湯をわかし、冷やし中華の麺をゆでようとしていた。

「具なしで麺だけ食べるの? ママも冷やし中華食べたいから、うすやき卵を作って、きゅうりとハムも切って食べようよ。紅ショウガもあるし」

「たしかに。おれ、料理ができる男だから」

「はいはい」

ということで、自然と一緒に作ることになった。

私が卵を焼いている間、次男がきゅうりを切る。

「薄く切れないよ。どうしたら薄く切れるの?」

「添えてる手が離れすぎてるよ」

「だって、手が切れちゃうじゃん」

「いや、切れないから(笑)」

そんなこんなで途中でバトンタッチ。
今度は次男が麺をゆでている間に私が残りのきゅうりと卵とハムを切る。

次男が麺を冷やしている間に私が皿を並べて、次男が盛りつける。そんな風にして2人で作った冷やし中華を、お昼に一緒に食べた。

こういうことが、一番尊いことなんだと思う。

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