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正常の越境者

うちには刃物がない。

正確に言うなら包丁とハサミと夫の髭剃り以外の刃物はない。「カミソリなんてあったら君簡単に切ろうとするだろう」って、カミソリ、カッターの類は全て捨てられてしまった。安全カミソリさえ捨てられた。無邪気に安全カミソリの刃を覆っているプラスチックの部分を外そうとしてみて外れなかったので、ああ本当に安全なんだなあと感心して夫にそれをそのまま言ったら、分解するなんて怖いなにやってるんだ君は!! ということで、捨てられてしまったのだ。

それで、リストカットという行為は物理的に不可能になってしまったので、しなくなった。

このnoteの一番最初の記事「近況」のように、頭がおかしくなっても私はずいぶん長い間切れなかったのだ。切れば簡単に正常に戻れるというのに。

とこう言うと「切れば正常に戻れるという考え方そのものが異常だってわからない? 分かってるでしょどんなにおかしいか」と懇々と諭されたけれど、夫の言い分ももっともだと分かる反面、頭が正常でない時というのは本人である私にとっては酷くつらい時間なのだ。切るとスイッチが簡単に切り替わるのだ。カチッと正常に戻る。ちゃんと切った直後は後悔するけれど、それは夫に悪いと思うからで、本音を言えば自分の体をどうしようと自由だろうとちょっとだけ思っている。その自由を行使されて、夫がもしリスカなどしようものなら、それこそ気が狂いそうになるほど悲しくなることも分かっているので、しぶしぶながら切らないでおくように決めたけれど。

ここまでが序文。

心理的にも物理的にも自傷する機会もないまま過ごしていたけれど。

何かの記事で唇の皮をむしるのも自傷だと書いてあって愕然とした。

冬になると私の唇はガサガサになるのだ。それが異様に気になる。だからむしる。血が出ようと何だろうとむしる。そうやってむしる箇所がなくなると達成感のようなものを感じて数日は安穏と暮らす。だが数日後には、生えかけの唇のがさつきにまた指が伸びる。これは私、本気で皆もやっていることだろうし、なんにもおかしくないよね、と疑いも持たなかった。

ところが私が唇の皮をむいているのを夫が「痛々しいからやめて」と禁止令を出してきた。高いリップクリームまで買ってきて。

唇の皮の記事を読んでからは、あーこの人は本当に骨の髄まで正常な人なんだなあと変にすごく感心してしまった。それから我が身を振り返り、子供のころからごく自然にやっていた唇の皮をむくという一見正常なしぐささえ異常判定されてしまった私としては、なんだか劣等感のようなものを感じてしまうのだ。

リップクリームは唇の皮を柔らかくさせる効果がある。ガサガサした唇の皮が余計むきやすくなってしまった。夫の前でこれ見よがしにむくことはなくなったけど、夫の目の届かないところでこっそりむいている。とても放っておくという選択ができないのだ。気になって仕方ないのだ。むきたくて仕方ないのだ。そうならないようにリップはちょくちょく塗っているのだけど、私の唇の皮というのはよっぽど薄いのか水分が簡単になくなってしまって、むかずにはおれないのだ。

それどころか、滅多にないことだが夫の唇の皮がめくれかかっているのを見ると、むいてやりたくなってしまう。気になって仕方ないのだ。自傷どころか他傷の危険性まである。

いったいこの、自分の体を傷つけたいという欲求は何なんだろうなあ。

去年あるヒトとTwitter上でトラブルになって、しばらくしてから体中がかゆくてたまらない時が夜になると訪れるようになった。心因性のものですね、と心療内科の医師は言った。かゆみ止め? の薬を処方されたけれど、全然効かなかった。かゆすぎて血がにじむまでかきむしる。体中のいたるところに今では薄赤い斑点が残ってしまった。ちなみに今でも時々そうやってかきむしっている時間はある。治らないのだ。

まだある。在宅勤務になった夫がこたつテーブルでPCに向かっている横で、毎日のように、うつぶせに寝転んで本を読んでいる。そうやってて、気が付いたら片方の足の指の爪で片方の足の指を一か所ずっとかゆくもないのにガリガリ引っ搔いて、血が出てもやめられずずっと引っ掻いていた。左足の指にはそうやって全部赤黒い跡が残っている。右足の指にも3本残っている。

どうも私はトラブルが起きるとそういう風に自分を傷つける方向で、心の安定を図ろうとする。

あ。いま分かった、そうかそうか。心の安定を図るために傷つけずにおれないのだ。

考えてみれば、子供のころ、現実逃避のため本を読んでいたのに、母親の八つ当たりでその本を滅茶苦茶に引き裂かれたとき、泣きながら母親の鏡台からカミソリを出して手のひらを一直線に傷つけた。

私の子供のころはまだ「リストカット」なんて言葉はなかった。それでも悲しみのあまりどうしていいのかわからなくて切ったのだ。当然リストカットする場面を映したテレビも本もなかった。それでも切らずにおれなかったのだ。母親は(当然)その傷に気が付かなかった。

思えば、あの小学校低学年のころからだ、自分を傷つけて心の安定を図ろうとしたのは。

なんだろうなあ。「私はあなたによってこれくらいの痛みを負った」の可視化か。それもあるだろうけれど、ちょっと違う。「私はあなたにとって何の価値もない私を責める」ために傷つけていたような気がする。だってそういう風に育てられたから。何かというと母親には「お前が悪い」とぶたれていた。そう、私が悪いから、悪い子には罰を与えましょう、的な? 笑

書いていて笑ってしまった。

私は、私が生きていることにいつも申し訳なさを感じている。それと同じくらい、そう思わせる人間を憎む。だから私自身を傷つけて鬱憤を晴らす。

それだけ。たったそれだけの理由だった。