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新聞白旗5号:「どうしたらいいですか!」

ここしばらく、意欲がゼロでした。というかマイナスでした。何も生産的なことがやれないし、返事しなければいけないメールも返事できない。社会人として廃人化していました。急ぎの仕事はないので、まあそこまでヒト迷惑にはなってない(と思う)のですが。

情けないという想いばかり。しんどいのに、心の動きが致命的に鈍くて、自分ではどうしようもできなかった。

で、今朝、ちょっと体調をくずした相方に「(ホメオパシーの)レメディーを飲むといいよ」と声をかけ、相方がレメディーの箱を開けたときに、「あ、自分もこの状況に対してレメディーを飲むといいのかも」とやっと思い付き、なんとなくNat Murの30cを飲みました。「悲しみが塩漬けになってる人」用のレメディー。

で、すでにさんざん寝ていたのに、これを飲んだらまたいつのまにか眠りに落ちていて。夢をみました。目覚めたとき、雪片みたいな、かすかな意欲のかけらが落ちてきたのを感じた。「あ、」と思った。

「他人が見た夢の話ほどつまらない話はない」と『シェルタリング・スカイ』の中でポール・ボウルズが書いてたのを昔読んで、「そうだよな」と思ったけど、ここは『新聞白旗』なので、書く。。

実家の家族と一緒にいるんだけど、自分だけ精神が壊れている、という内容の夢でした。それで兄が私のケアをしてくれようとするのだけど、私は握りしめていた金属片の束(鍵束?)のようなものを、「これだけは!」と死守して、絶対に放そうとしなかった。

その次のシーンで、先住民系の年上の女性がソファのようなものに座っていて、その人の膝に私はすがりついて泣きじゃくりながら「どうしたらいいですか!」と聞いてた。その女性は、淡々と「つくり続ける」ことができている人だった。顔つきは、少し、奥アマゾンのヤノマミの人を思わせた。

どうしても乗り越えられてない

私の中にある”人種差別”が、このところじくじくと疼いてたのです、またしても。気持ちの水面まで上がってきてはいなかったのだけど、心の底のほうで澱のようなものになってたみたいで、グレゴリオ暦の新年が明けて見た初夢の後味が「もうこれ以上、白人からものを教わりたくない」というものでした。

自分でも、驚いた。これ系の想いがときどき巡回してくるのは事実だけど、なぜこのタイミング?

そして「白人」とざっくりまとめてしまうことの暴力というか雑さは心底わかっているつもりなのに、なぜいまだに?

(上に書いた)ホメオパシーだって、小説だって、そのほかたくさんのことだって西欧文化由来で、西欧文化の創意工夫のおかげで暮らしの端々でさんざん助けてもらってきているのに。

だけどこの想いを無理やり駆逐することはできないし、共にいるしかなくて。そしてこの想いは、英語を使った翻訳・通訳業を営むうえでは、けっこうな足かせになるので、困り果てていました。意欲のともしびが消え消えになってしまって。

それで、多少気力が上がったある日、「むしろ和英翻訳なら、こんな気持ちでもできるかもしれない」と心機一転、日本の建築について発信する雑誌連載の英訳の仕事に手を挙げてみたりしました。しかし、手を挙げたとたんに「雑誌連載の英訳なんて最後にやったの20年以上前じゃん、もうずっと日本住まいなのにちゃんとできるわけないじゃん、今は英語圏にだってネイティブの和英翻訳者なんて大勢いる、その人らのほうが適任なのは明らか」と及び腰オンパレードになりました。その仕事のオファーが別の人(翻訳会社)へ行ったと知ったときは、ほっと胸をなでおろしたほど。

何してるんだ自分……。

心の中のわだかまりがあると、ものごとはうまく流れないこと、するする流れているときはミラクルかと思うような展開が続くことは、なんども実感してきました。「なんでかわからないけど、運ばれている」とわかる体験ってたまにありますね。。

今はその真逆で、自分がしようとしていること、心の中で思っていること、の、そこここに、ごつんごつんとわだかまりの塊があって。流れが暗く澱んでいる。嵐かなにかが来て、水量をどばっと増してくれて、いやがおうにも流れを早めてくれるのを、ひたすら待っているような感覚。

そんな中で見た、今朝のヤノマミの人を思わせる女性の姿。淡々とした静かな佇まいだった。私のもとにあの人が来てくれたことを思うと、泣きそうになる。なんでだ。

世界各地の先住民文化をロマン化して憧れるのは当事者の人たちに失礼すぎる、と頭ではわかっていて。でも西欧文化とは違う文化のレイヤーが存在することが自分にとっては希望です。言語化されることなく共有されている、その文化圏にある透明の「前提」、その「前提」が異なっているレイヤー。

どの文化圏にもすばらしいと思うところと好きになれないところとがあるのだろうし、それが現実なのだろうけれど。

それでも。憧れることをやめられないポンコツな自分がいるってことを、受け止めて、放ちたい。

自分の中に、特定の文化圏に対する根源的嫌悪が根強くあるってことも、受け止めて、放ちたい。

尊敬する人を尊敬していたいという、根源的欲求

尊敬する、と思った人にがっかりする、ということを、人生を通じて繰り返していて。これも一方的に「尊敬に値する像」を他者にかぶせて、一方的にがっかりするという、とてもヒト迷惑な行為だという自覚はあるのですが。

尊敬する人を尊敬していたいと願うことも、なかなかやめられないでいます。この欲求は一体なんなんだ、と思う。

質が悪いのは、がっかりするとダメージの回復にかなり時間がかかったりすること。ひと月以上かかることも割とあります。情けない。

特定の他者に、特定の文化圏に、勝手に「すてきイメージ」をかぶせて「尊敬しちゃう癖」、どうしたらやめられるんだろう。

逆ベクトルの、「白人」などという雑にまとめたイメージをかぶせて「嫌だと思っちゃう癖」、これもどうしたらやめられるんだろう。

その対象のことを知ったつもり、わかったつもりにならないでいることしかないのかな。そして見えてくるいろんな側面をただ見ていくこと?

割り切れない現実。。きれいに割ることも切ることもできないときに現れるのは、自然な味わいなんだろかな。

それにしても現実レベルでの今後の身の振り方は。。どうしたらいいんだろう。夢の中で「どうしたらいいですか!」と叫んだその答えは、どこからか届くんだろかな。。?

とりあえずこうして書けて、澱んでいた流れが少し通ったので、はてなを抱えて進みます。











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